ヨーク大学日本語科三学年読解教材
_____________________________________
「遅れた出奔」
大学四年のとき、失恋した直後、内定していた会社に「私儀、事情により内定を
取り消させていただきます。」というような手紙を送り、大学の事情に詳しい友
人に休学手続きを頼んで、車で、だいぶ遅れた家出を決行。落ち着いたら、連絡
するという置き手紙を残して、出奔。親にはだいぶ心配をかけたが、自分は真面
目であった。誰も知っている人のいないところで一年間自活するというのが、目
的であった。無党派の政治活動を含め、ちゃらんぽらんではあったが、一時は八
つのクラブ活動をしていた時期があり、家永三郎教授が国を訴えた教科書検定訴
訟を支援する大学代表委員をしたり、「ICU平和を守る会」などを組織したり、
在日朝鮮人及び韓国人に対する差別問題に取り組んだりしていた。日韓条約締結
反対のデモで、東京駅の構内に入り新幹線のホームを占拠した時、動労の組合員
に、いっしょにやろうと声をかけたら、「あんたらには生活がかかっていないじ
ゃないか。」との答えが返ってきたのが、痛切に身にしみたのだった。卒業を控
えて、自分で何が出来るのか、独りで食って行けるのかと自分に問い掛けてみて、
その経験のないことが一番こたえた。もちろん失恋の痛手も大きかったし、結婚
を予想しての、予定してなかった就職であったので、大いに嫌気がさしていたの
も事実である。にっちもさっちも行かなくなっての夜逃げと言った方が当たって
いたかもしれないが、意を決してからは非常に気持ちが楽になった。大学では、
毎年ストの続いた時代であった。それにも嫌気がさしていた。
夜中の二時ごろそっと家を抜け出し、ゆっくり東海道を大阪に向けて走った。別
に急ぐ旅ではなかったので、大阪に着いたのは、夕方近かった。さて、西も東も
分からない大阪でどうするか。初めに着いたところは、日本橋、恥ずかしい話だ
が、大阪に日本橋、にっぽんばしと読む、があることさえ知らなかった。何しろ、
高校の修学旅行で一度来たことがあるだけだったのである。ちょうど、恵比寿祭
り、えべすさんと呼んでいた、の時で、界隈はにぎわっていたように思う。まず、
腹ごしらえをして泊まるところを探さなくてはと、近くの中華料理屋に飛び込む。
そこのマスターに、大阪は初めてなので、どこか安くてきれいな泊まる所はない
か尋ねると、「ちょっと待ってな。一緒に行って上げるから。」と非常に親切な
人で、えべすさんのすぐ側のビジネスホテルへ案内してくれた。今でこそ東京に
もビジネスホテルなるものがたくさんあるが、そのころはまったくなかった時代
である。まさに安くてきれいなホテルであった。人が親切なことと、合理的な生
活スタイルにまずよい印象を受けた。その晩はぐっすり眠って、次の朝食堂で朝
食を取りながら、おもむろに新聞の求人覧に目を通した。大阪に来た理由の一つ
は、日本第二の大都会であれば、トラックの運転手の仕事ぐらいはかなりあると
思ったからである。はっと目にとまったのが、「日の出運送」という名前であっ
た。実は、夏休みに、東京の八丁堀で働いていたのも「日の出運送」だったので、
これも何かの縁と早速電話をかけることにした。「日の出運送」という名は日本
全国には掃いて捨てるほどあるのだが、何か運命のいたずらを感じた。
電話をかけて、社長に、ありのままを話し、学生で一年しか働けないが、と言う
と、すぐ面接に来いとのこと、場所を聞いて早速出かけることにした。行ってみ
ると、そこは旭区にある京阪の森小路駅の近くの小さな運送会社で、運転手も十
人ほどしかいないようであった。社長は苦労人で、話を聞いて、すぐ雇ってくれ、
明日から来るようにと言ってくれた。住むところはあるのかと聞かれたので、こ
れから探すところだというと、社長の家に下宿してもいいと言ってくれたが、そ
れではあまり甘え過ぎていると思い辞退すると、汚くてよければ、夜の電話番を
する条件で、車庫の上の部屋に家賃無しで住んでいいとのこと、早速好意に甘え
た。こうして、大阪での一年間のトラックの運転手稼業が始まったのであるが、
自分独りで何かをしたというより、結局多くの人に助けられて、自分の我侭を通
させてもらったというのが本当のところである。
1997年5月30日
トロントにて
太田徳夫
___________________________________
[語彙]
遅れた おくれた belated
出奔(する) しゅっぽん abscond, run away
失恋(する) しつれん be brokenhearted
直後 ちょくご right after
内定(する) ないてい unofficial decision
私儀 わたくしぎ as for me
取り消す とりけす cancel, retract
事情 じじょう circumstance
詳しい くわしい knowledgeable
友人 ゆうじん friend
休学(する) きゅうがく temporary absence from school
手続き てつづき procedure
頼む たのむ ask
家出(する) いえで run away from home
決行(する) けっこう carry out
落ち着く おちつく settle down
連絡(する) れんらく contact
置き手紙 おきてがみ a note left behind
残す のこす leave behind
心配(する) しんぱい worry
真面目(な) まじめ serious
誰 だれ who
自活(する) じかつ support oneself
目的 もくてき purpose
無党派 むとうは non-partisan, non-sect
政治 せいじ politics
活動(する) かつどう activity
時期 じき period
家永三郎 いえながさぶろう Professor Sabroo Ienaga
訴える うったえる sue, accuse
教科書 きょうかしょ textbook
検定 けんてい official approval
訴訟 そしょう lawsuit
支援(する) しえん support
代表(する) だいひょう representative
委員 いいん committee member
平和 へいわ peace
守る まもる protect, defend
組織(する) そしき organize
在日 ざいにち resident in Japan
朝鮮人 ちょうせんじん (North) Koreans
及び および as well as
韓国人 かんこくじん (South) Korean
対する たいする toward
差別 さべつ discrimination
問題 もんだい issue
取り組む とりくむ grapple with
日韓条約 にっかんじょうやく Japan-Korea Security Treaty
締結(する) ていけつ conclude (a treaty)
反対(する) はんたい oppose
構内 こうない premises
新幹線 しんかんせん bullet train
占拠(する) せんきょ occupy
動労 どうろう National Railway Motive Power Union
[国鉄動力車労働組合]
組合員 くみあいいん union member
生活(する) せいかつ life
痛切(な) つうせつ painful
身 み body
身にしみる be painfully aware
卒業(する) そつぎょう graduate
控える ひかえる with … near at hand
独り(で) ひとり by/for oneself
問い掛ける といかける ask oneself
経験(する) けいけん experience
一番 いちばん most
痛手 いたで severe blow
結婚(する) けっこん marry
予想(する) よそう anticipate
予定(する) よてい plan
就職(する) しゅうしょく be employed
嫌気(がさす) いやけ be fed up
事実 じじつ fact
夜逃げ(する) よにげ run away by night
当たる あたる be suitable, appropriate
非常(に) ひじょう extremely
楽(な) らく easy
時代 じだい era, period
夜中 よなか midnight
抜け出す ぬけだす sneak out
東海道 とうかいどう the Tokaido highway
大阪 おおさか Osaka
向ける むける heading
走る はしる run
別(に) べつ (not) particularly
急ぐ いそぐ hurry
旅 たび trip
日本橋 にっぽんばし Nippon-bashi
恥ずかしい はずかしい embarrassing
修学旅行 しゅうがくりょこう school excursion
恵比寿 えびす Ebisu ‘the god of wealth’
祭り まつり festival
呼ぶ よぶ call
界隈 かいわい vicinity, neighbourhood
腹ごしらえ(をする)はらごしらえ take a meal, fill stomach
泊まる とまる stay
探す さがす look for
中華料理屋 ちゅうかりょうりや Chinese restaurant
飛び込む とびこむ jump into
尋ねる たずねる inquire
一緒(に) いっしょ together
親切(な) しんせつ kind
側 そば nearby
案内(する) あんない guide
合理的(な) ごうりてき rational
印象 いんしょう impression
受ける うける receive
眠る ねむる sleep
求人欄 きゅうじんらん help-wanted column
(目を)通す (めを)とおす glance over
理由 りゆう reason
第二 だいに second
大都会 だいとかい large city
運転手 うんてんしゅ driver
仕事 しごと work
運送(する) うんそう transportation
八丁堀 はっちょうぼり Hatchobori (downtown Tokyo)
働く はたらく work
縁 えん fate
早速 さっそく right away
掃く はく sweep
捨てる すてる throw away
運命 うんめい fate, destiny
感じる かんじる feel
面接(する) めんせつ interview
場所 ばしょ place
旭区 あさひく Asahi Ward
京阪 けいはん Keihan Railway
森小路 もりしょうじ Morishoji Station
苦労人 くろうにん man of the world
雇う やとう hire
明日 あす tomorrow
住む すむ live
下宿(する) げしゅく lodging
甘える あまえる take advantage of
過ぎる すぎる excess
辞退(する) じたい decline
汚い きたない filthy
電話番 でんわばん duty of answering the phone
条件 じょうけん condition
車庫 しゃこ garage
部屋 へや room
家賃 やちん rent
好意 こうい good will, kindness
稼業 かぎょう profession
結局 けっきょく in the end
助ける たすける help, save
我侭 わがまま selfishness
___________________________________
(C) Norio Ota 2000