ヨーク大学日本語科第三学年読解教材 AP/JP3000 6.0 Advanced Modern Standard Reading Comprehension
以前は「知識は力なり」だったのが、最近は「コンピューターは力なり」と言ってもよいほどコンピューターの役割が増してきたように思う。コンピューターに関して知っているか知らないかによって、仕事の種類、量、また交際・活動範囲がまったく違ってくるというのが現状である。画期的な理論や技術の場合たいてい同じであるが、コンピューターの場合は特にその衝撃の大きさと広さには計り知れないものがある。大学を例にとってみても、コンピューターをアカデミアにとって最大の脅威ととるか、救世主ととるかで、対応の仕方に雲泥の差が見られる。コンピューター化に反対する人たちは、それが「非人間的」だととらえ、賛成する人たちは、その効用を徹底的に利用しようとする。確かにコンピューターに振り回されているきらいもないではないし、コンピューターのおかげで効率よく仕事ができるために、もっと仕事の量が増えたという点も否めない。それだけでなく、コンピューターは、インターネットに代表されるような異なった種類の仕事も作り出した。電子メールの発達で確かに情報交換と交信の量と速度が急激に増したが、一日何十というメッセージを読み、それに対応するというのはかなり時間がかかり、職場でだけでなく、自宅でもアクセス可能なために、待った無しにメッセージを開くことが常に要求される。ソフトウエアーを見ても、日進月歩で飛躍的に改良が進み、複雑になり、素人にとっては、ワードプロセシングを学ぶことだけでも大変な仕事になっている。私は、十年以上前からコンピューターを使っているが、そのころと比べて、もし自分が今からコンピューターを使い始めるとしたらどうだろうと考えると、コンピューター恐怖症にかかっている人たちをあながち責められない。十年以上の経験があって初めて、一応現在のコンピューターがこなせるのである。こなせると言っても、コンピューターの持っている可能性の十分の一も活用していないかもしれない。しかし、ここであきらめるわけにはいかない。好むと好まざるとに関わらず、コンピューター化はどんどん進み、どこかで始めなければ、完全に取り残されてしまう。もちろん、ここに選択の余地がある。ある人はコンピューターを拒絶するだろう。しかし、二十一世紀を展望してみると、コンピューターが我々の社会の中心になっていくことは誰も否定できない現実である。特に教育の分野を考えてみると、我々はそういう社会で活躍する若い世代を作り上げていく役割を担っている。大学は常に流動する社会に対する鋭い批評家でなければならないが、それとともに、変化に対しての柔軟性が要求される。大学人がいつまでも旧態依然とした「象牙の塔」にこもって、アカデミアの現状維持を図ろうとするならば、どうして新しい時代に適応できる若い頭脳を創造していくことができるか。 コンピューターを学ぶことには一つの大きな落とし穴があるように思う。いくらユーザー・フレンドリーになったからと言って、即座に使えるようになると考えるのは大間違いである。多くの大学人は、自分の分野で権威であり、学識も豊かであるために、コンピューターぐらいわけなく学べるはずだと思ってしまう。彼らは、コンピューターが他の学習と同じように、知識と経験それに創造性を要求することに注意を払わない。それで、すぐ学べないと、苛立ち、機械やソフトのせいにする。彼らは、コンピューター関係の技術屋と話すことを極度に嫌う。彼らが話すことがチンプンカンプンでまったく分からないと言う。自分たちが専門分野を教える時に、どれほど専門用語や概念を使っているかということには一顧だにしない。確かに、技術屋サンたちにも問題がある。彼らの下位文化は、ブルーカラーのそれと同じである。知識と実力が勝負の世界である。相手が教授であろうと何であろうと、コンピューターに無知であれば、そのように扱う。これまで象牙の塔での権威とそれに対する敬意をほしいままにしてきた教授にとって、これは耐え難いだけでなく、大きな侮辱でもある。彼らは自分の無知をさらけ出すことを極度に恐れる。私は、ここにいわゆる各学部のコンピューター担当者の役割を見る。アカデミアの下位文化と技術屋の下位文化の異文化間コミュニケーションの橋渡しという役割である。教員でもかなりの知識を持っていれば、技術屋サンもそれなりの敬意を払ってくれるし、教員の方も自分の沽券をそれほど気にせずに質問できる。私はコンピューターを担当して三年目になるが、コンピューター化がアカデミアにとって最大の試練であると見ている。そして、これをどう乗り切るかに、大学の将来がかかっているとも思っている。 トロントにて 1997年10月23日
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