ヨーク大学日本語科三学年読解教材
「遅れた出奔」
大学四年のとき、失恋した直後、内定していた会社に「私儀、一身上の理由により内定
を取り消させていただきます。」というような手紙を送り、大学の事情に詳しい友人に休
学手続きを頼んで、車で、だいぶ遅れた家出を決行。落ち着いたら、連絡するという置き
手紙を残して、出奔。親にはだいぶ心配をかけたが、自分は真面目であった。誰も知って
いる人のいないところで一年間自活するというのが、目的であった。無党派の政治活動を
含め、ちゃらんぽらんではあったが、一時は八つのクラブ活動をしていた時期があり、家
永三郎教授が国を訴えた教科書検定訴訟を支援する大学代表委員をしたり、「ICU平和を
守る会」などを組織したり、在日朝鮮人及び韓国人に対する差別問題に取り組んだりして
いた。日韓条約締結反対のデモで、東京駅の構内に入り新幹線のホームを占拠した時、動
労の組合員に、いっしょにやろうと声をかけたら、「あんたらには生活がかかっていない
じゃないか。」との答えが返ってきたのが、痛切に身にしみたのだった。卒業を控えて、
自分で何が出来るのか、独りで食って行けるのかと自分に問い掛けてみて、その経験のな
いことが一番こたえた。もちろん失恋の痛手も大きかったし、結婚を予想しての、予定し
てなかった就職であったので、大いに嫌気がさしていたのも事実である。にっちもさっち
も行かなくなっての夜逃げと言った方が当たっていたかもしれないが、意を決してからは
非常に気持ちが楽になった。大学では、毎年ストの続いた時代であった。それにも嫌気が
さしていた。
夜中の二時ごろそっと家を抜け出し、ゆっくり東海道を大阪に向けて走った。別に急ぐ
旅ではなかったので、大阪に着いたのは、夕方近かった。さて、西も東も分からない大阪
でどうするか。初めに着いたところは、日本橋、恥ずかしい話だが、大阪に日本橋、にっ
ぽんばしと読む、があることさえ知らなかった。何しろ、高校の修学旅行で一度来たこと
があるだけだったのである。ちょうど、恵比寿祭り、えべすさんと呼んでいた、の時で、
界隈はにぎわっていたように思う。まず、腹ごしらえをして泊まるところを探さなくては
と、近くの中華料理屋に飛び込む。そこのマスターに、大阪は初めてなので、どこか安く
てきれいな泊まる所はないか尋ねると、「ちょっと待ってな。一緒に行って上げるから。」
と非常に親切な人で、えべすさんのすぐ側のビジネスホテルへ案内してくれた。今でこそ
東京にもビジネスホテルなるものがたくさんあるが、そのころはまったくなかった時代で
ある。まさに安くてきれいなホテルであった。人が親切なことと、合理的な生活スタイル
にまずよい印象を受けた。その晩はぐっすり眠って、次の朝食堂で朝食を取りながら、お
もむろに新聞の求人覧に目を通した。大阪に来た理由の一つは、日本第二の大都会であれ
ば、トラックの運転手の仕事ぐらいはかなりあると思ったからである。はっと目にとまっ
たのが、「日の出運送」という名前であった。実は、夏休みに、東京の八丁堀で働いてい
たのも「日の出運送」だったので、これも何かの縁と早速電話をかけることにした。「日
の出運送」という名は日本全国には掃いて捨てるほどあるのだが、何か運命のいたずらを
感じた。
電話をかけて、社長に、ありのままを話し、学生で一年しか働けないが、と言うと、す
ぐ面接に来いとのこと、場所を聞いて早速出かけることにした。行ってみると、そこは旭
区にある京阪の森小路駅の近くの小さな運送会社で、運転手も十人ほどしかいないようで
あった。社長は苦労人で、話を聞いて、すぐ雇ってくれ、明日から来るようにと言ってく
れた。住むところはあるのかと聞かれたので、これから探すところだというと、社長の家
に下宿してもいいと言ってくれたが、それではあまり甘え過ぎていると思い辞退すると、
汚くてよければ、夜の電話番をする条件で、車庫の上の部屋に家賃無しで住んでいいとの
こと、早速好意に甘えた。こうして、大阪での一年間のトラックの運転手稼業が始まった
のであるが、自分独りで何かをしたというより、結局多くの人に助けられて、自分の我侭
を通させてもらったというのが本当のところである。
1997年5月30日 トロントにて
太田徳夫
[語彙]
遅れる おくれる be late
出奔(する) しゅっぽん run away
失恋(する) しつれん broken heart
直後 ちょくご right after
内定(する) ないてい unofficial decision
私儀 わたくしぎ as for myself
一身上 いっしんじょう for personal (reasons)
取り消す とりけす cancel, withdraw
事情 じじょう circumstances
詳しい くわしい familiar (with), knowledgeable
友人 ゆうじん friend
休学(する) きゅうがく leave of absence
手続き てつづき procedure
頼む たのむ ask
家出(する) いえで run away from home
決行(する) けっこう carry out
落ち着く おちつく settle down
連絡(する) れんらく contact
置き手紙 おきてがみ a note left behind
残す のこす leave
心配(する) しんぱい worry
真面目(な) まじめ serious
誰 だれ who
自活(する) じかつ support oneself
目的 もくてき purpose
無党派 むとうは non-sect
政治 せいじ politics
活動(する) かつどう activity
時期 じき period
家永三郎 いえながさぶろう Professor Saburo Ienaga
訴える うったえる sue
教科書 きょうかしょ textbook
検定(する) けんてい official approval
訴訟(する) そしょう lawsuit
支援(する) しえん support
代表(する) だいひょう representative
委員 いいん committee member
平和 へいわ peace
守る まもる protect, defend
組織(する) そしき organize
在日 ざいにち residing in Japan
朝鮮人 ちょうせんじん [North] Korean
及び および and, as well
韓国人 かんこくじん [South] Korean
対する たいする toward
差別(する) さべつ discriminate
問題 もんだい issue
取り組む とりくむ grapple with
日韓条約 にっかんじょうやく Japan-Korea Security Treaty
締結(する) ていけつ conclude (a treaty)
反対(する) はんたい oppose
構内 こうない premises
新幹線 しんかんせん new Tokaido line, bullet train
占拠(する) せんきょ occupy
動労 どうろう
組合員 くみあいいん union member
生活(する) せいかつ life
痛切(な) つうせつ painful
身 み body
卒業(する) そつぎょう graduate
控える ひかえる near at hand, wait
独り(で) ひとり for oneself, alone
問い掛ける といかける ask questions
経験(する) けいけん experience
一番 いちばん most
痛手 いたで severe blow
結婚(する) けっこん get married
予想(する) よそう predict
予定(する) よてい plan
就職(する) しゅうしょく be employed
嫌気(がさす) いやけ/いやき be fed up with
事実 じじつ actually
夜逃げ(する) よにげ flee by night
当たる あたる correspond, suitable
非常(に) ひじょう extremely
楽(な) らく easy
時代 じだい period
夜中 よなか midnight
抜け出す ぬけだす sneak out
東海道 とうかいどう Tokaido
大阪 おおさか Osaka
向ける むける direct (to), head (for)
走る はしる run
別(に) べつ in particular
急ぐ いそぐ hurry
旅 たび trip
日本橋 にほんばし
恥ずかしい はずかしい feel ashamed
修学旅行 しゅうがくりょこう school excursion
恵比寿 えびす
祭り まつり festival
呼ぶ よぶ call
界隈 かいわい vicinity
腹(ごしらえ) はら stomach
泊まる とまる stay
探す さがす look for
中華料理屋 ちゅうかりょうりや Chinese restaurant
飛び込む とびこむ drop in
尋ねる たずねる inquire
一緒(に) いっしょ together
親切(な) しんせつ kind
側 そば nearby
案内(する) あんない guide
合理的(な) ごうりてき rational
印象 いんしょう impression
受ける うける receive
眠る ねむる sleep
求人欄 きゅうじんらん want ad
(目を)通す とおす glance over
理由 りゆう reason
第二 だいに second
大都会 だいとかい large city
運転手 うんてんしゅ driver
仕事 しごと job, work
運送(する) うんそう transport
八丁堀 はっちょうぼり
働く はたらく work
縁 えん fate
早速 さっそく right away
掃く はく sweep
捨てる すてる discard
運命 うんめい destiny
感じる かんじる feel
面接(する) めんせつ interview
場所 ばしょ place
旭区 あさひく
京阪 けいはん
森小路 もりしょうじ
苦労人 くろうにん man of the world
雇う やとう hire
明日 あす tomorrow
住む すむ live
下宿(する) げしゅく lodge
甘える あまえる take advantage of
過ぎる すぎる excess
辞退(する) じたい decline
汚い きたない filthy
電話番 でんわばん answering the phone
条件 じょうけん condition
車庫 しゃこ garage
部屋 へや room
家賃 やちん rent
好意 こうい favor
稼業 かぎょう profession
結局 けっきょく in the end
助ける たすける help, rescue
我侭 わがまま selfishness
Last Modified: Wednesday, 6 January 1999, 00:39 EST
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