「翻訳」
最近やっとレジナルド・ビビー氏の「モザイクの狂気」の日本語訳を脱稿した。
色々事情があって、なかなか終わらせることが出来ず出版社にはずいぶん迷惑
をかける仕儀となったが、生半可に翻訳など出来ないという感じを強くした。
翻訳を手がけたことがある人なら、誰しも経験することであるが、翻訳が、基
本的には一つの文化をもう一つの文化に投射する仕事であるために、二つの言
語はもとよりかなりそれぞれの文化に造詣なくしてはほとんど不可能であると
言える。いや、両言語・文化にかなり精通している人にとっても、翻訳は容易
な仕事ではないのである。日本は世界でも有数の翻訳王国であるが、学生時代
に読んだ訳書にはかなりひどいものもあった。特に哲学書などは、ちんぷんか
んぷんで何が書いてあるのか分からないものが多かった記憶がある。ハイデッ
ガーの「存在と時間」などは、多分原文か英訳を読んだ方が分かりやすかった
だろうと思う。「誤訳」という本が出るほどであるから、いちいち翻訳書を当
たってみたら、誤訳の数は限りなくあることであろう。最近は、特に、「政治
的正しさ」ということが言語表現に関する無言の検定基準になっているので、
翻訳者は大変である。差別用語に聞こえるものはすべて検閲官の目が光ってい
るので、めったやたらなことは言えないし書けない。「めくら」「おし」「つ
んぼ」「びっこ」というような明らかに差別用語であるものは、使用を控える
のは当然としても、それらが出てくる古い書籍までも、この基準で改定しよう
とする動きにはついていけない。もう少し難しいケースとしていくつかあげて
みよう。 women’s issue これは「女性問題」と訳しがちであるが、やはり、
「女性に関する論争点」とでもすべきであろう。 single parent とかone-parent
family は 「片親」とか「片親家庭」になってしまいそうであるが、「片親」
というイメージを含めないために「一人親」とか「一人親家庭」というように
新しい用語を作ることにした。 intermarriage なども通例「国際結婚」と訳さ
れるが、「混成結婚」にしてみた。 inequities は「不公平」になりがちであ
るが、「不公正」の方が少し中立的な響きがあってよいと思われる。こう見て
くると、翻訳者は未だに新しい用語・表現を作り出す役割を持っていることが
分かる。古代から日本が中国と朝鮮[旧名なのであえて韓国としない]から新
技術と用語を輸入した時は、ほぼ漢字を使えたが、江戸時代から明治・大正期
の訳者・学者達の苦労は並大抵ではなかったであろう。恐いのは、我々が現在
使っている、外来の語彙の訳語が、いかに本来の意味からかけ離れているかが
実際に原語をかなり修得してみなければ分からないことである。 democracy
が「民本主義」「民主主義」と訳されたことを見ても分かるように、それぞれの訳
語には訳者がいかに原語の意味を解釈し日本語に輸入しようとしたかの苦労が
うかがえる。最近の傾向としては、漢字を使わずに、カタカナで外来語を表記
することが多くなった。 informed consent などは「告知された上での同意」と
いうように訳せるが、いかにも翻訳的でなじみにくい。こんな場合、訳者は訳
語に原語をつけるか、注釈をつけるかするのが、常であるが、一般には「イン
フォームド・コンセント」になってしまう。漢字の造語力が非常に限られてしま
っている日本語では、無理のないことかもしれないが、将来ますます漢字が使
われなくなるだろうと予想される。「化石化」した漢字文化が発展的に生き延び
る術はないものであろうか。これもやはり「持続可能性」サステイナビリティー
の問題であると思われる。
1999年4月30日
トロントにて
太田徳夫
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[語彙]
翻訳(する) ほんやく translation
最近 さいきん recently
狂気 きょうき madness
脱稿(する) だっこう finish writing
色々 いろいろ various
事情 じじょう situation, reason
出版社 しゅっぱんしゃ publisher
迷惑(をかける) めいわく trouble
仕儀 しぎ result, situation
生半可(な) なまはんか imperfect, half-baked
(を)手がける take up
誰しも だれしも everyone
経験(する) けいけん experience
基本的(な) きほんてき fundamental
文化 ぶんか culture
投射(する) とうしゃ project
仕事 しごと work
言語 げんご language
造詣 ぞうけい knowledge
(に)造詣が深い ぞうけいがふかい erudite
不可能(な) ふかのう impossible
精通(する) せいつう be versed in, be familiar with
容易(な) ようい easy
世界 せかい world
有数(の) ゆうすう leading, prominent
王国 おうこく kingdom
時代 じだい era
訳書 やくしょ translation (book)
特に とくに particularly
哲学書 てつがくしょ philosophy book
ちんぷんかんぷん gibberish
記憶(する) きおく memory
ハイデッガー Heidegger, Martin
存在 そんざい existence
時間 じかん time
[存在と時間] Sein und Zeit
多分 たぶん probably
原文 げんぶん original text
誤訳 ごやく mistranslation
数 かず number
限りない かぎりない limitless, endless
政治的正しさ せいじてきただしさ political correctness
言語表現 げんごひょうげん linguistic expression
関する かんする regarding
無言(の) むごん silent
検定基準 けんていきじゅん criteria for approval
大変(な) たいへん hard, troublesome
差別用語 さべつようご discriminatory expression
検閲官 けんえつかん inspector, sensor
目が光る めがひかる keep an watchful eye on
めったやたら(な) reckless and thoughtless
めくら blind
おし mute
つんぼ deaf
びっこ lame
明らか(な) あきらか obvious
使用(する) しよう use
控える ひかえる refrain
当然(な) とうぜん as a matter of course
書籍 しょせき books
基準 きじゅん criterion
改定(する) かいてい revise
動き うごき move
難しい むずかしい difficult
女性 じょせい female
訳す やくす translate
論争点 ろんそうてん (disputed) issue
片親 かたおや single parent
家庭 かてい home
含める ふくめる include
用語 ようご terminology
作る つくる create
通例 つうれい customarily
国際結婚 こくさいけっこん international marriage
混成 こんせい mixed
不公平 ふこうへい unfair
不公正 ふこうせい unjust
中立的(な) ちゅうりつてき neutral
響き ひびき sound, effect
未だ(に) いまだ still
表現(する) ひょうげん express
役割 やくわり role
古代 こだい ancient times, antiquity
朝鮮 ちょうせん old name of Korea
旧名 きゅうめい old name
あえて dare, venture, on purpose
韓国 かんこく South Korea
新技術 しんぎじゅつ new technology
輸入(する) ゆにゅう import
漢字 かんじ Kanji character
使う つかう use
江戸時代 えどじだい Edo Era
明治 めいじ Meiji Era
大正 たいしょう Taisho Era
期 き period, era
学者 がくしゃ scholar
達 たち [plural marker]
苦労(する) くろう go through hardships
並大抵(の) なみたいてい no easy (task)
恐い こわい scary
我々 われわれ we
現在 げんざい present
外来(の) がいらい foreign origin, imported
語彙 ごい vocabulary
本来(の) ほんらい original
意味 いみ meaning
かけ離れる かけはなれる be far apart from
実際(の) じっさい actual
原語 げんご original language
修得(する) しゅうとく acquire
民本主義 みんぽんしゅぎ Sakuzo Yoshino’s term for ‘democracy
民主主義 みんしゅしゅぎ democracy
解釈(する) かいしゃく interpret
傾向 けいこう tendency
表記(する) ひょうき transcribe
告知(する) こくち inform
同意(する) どうい consent
翻訳的(な) ほんやくてき translation like
なじむ become familiar with
場合 ばあい case
注釈(する) ちゅうしゃく annotate
常(の) つね usual, customary
一般(の) いっぱん general
造語力 ぞうごりょく creative power
非常(な) ひじょう extreme
限る かぎる limit
無理(な) むり impossible
将来 しょうらい future
予想(する) よそう predict, anticipate
化石化(する) かせきか fossilize
発展的(な) はってんてき developmental,expanding
生き延びる いきのびる survive
術 すべ means
持続可能性 じぞくかのうせい sustainability
問題 もんだい issue
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