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「日本らしさ」とは何か |
(7月6日掲載) |
京都大学名誉教授 上田 正昭 |
最近、東京のある出版社から「日本らしさとは何か」をテーマとする本をまとめてほしいとの依頼があった。ついで訪日されたアメリカの研究者からも「日本ら
しさとは何か」という質問を受けた。このようにあらためて「日本らしさとは何か」が問われている背景には、グローバリズムやボーダーレスの流行に対する反
省と危惧(きぐ)がある。
「日本らしさとは何か」を日本人自らがかえりみることは、けっして無駄ではない。日本人のアイデンティティーを確保するためにも「日本らしさとは何か」を探究することが不可避の課題となる。
ところで、多数の人びとが考える「日本らしさ」とは、日本固有の歴史と文化に根ざした起居振舞(たちいふるまい)、あるいはその独自なものの見方や考え方、場合によっては日本の風土に似合うたたずまいなどを指すことが多い。
だが、いうところの固有とか独自とかの「日本らしさ」を掘り下げてみると、次のような史実が浮かぶ。日本列島の歴史と文化は、内なる人びとのみによって
形づくられてきたのではなく、縄文時代・弥生時代のむかしから、海外とのつながりやかかわりのなか、あまたの海外から渡来した人びととの交わりによって展
開したことがわかる。
たとえば日本はしばしば葦原(あしはら)の瑞穂国(みずほのくに)と称されてきたが、その稲作じたいが渡来の文化であり、青銅器や鉄器もまた、そのはじめは中国大陸や朝鮮半島から日本列島へと伝播(でんぱ)した金属器であった。
内なる文化に外なる渡来の文化をたくみに結合し、変容して、固有で独自な文化を形成してきたのである。われらの祖先がすぐれているのは、外来のものをす
べて受容したのではない。たとえば儒教は積極的に受け入れたが、革命思想は排除した。都城制は中国の長安城や洛陽城に倣ったが、藤原京や平城京でも、長岡
城や平安京でも、ついに羅城は構築しなかった。したがって日本の都には宮都はあっても、都城はなかったといわなければならない。官吏登庸(とうよう)の試
験というべき科挙(かきょ)や去勢された男子の小吏すなわち宦官(かんがん)の制はついに受容しなかった。
日本の宗教史をひもとけば、神と仏は対抗するよりも習合の道をたどって、神宮寺や社僧が誕生し、平然と神前読経が行われた。
かつて長崎県五島列島のひとつ福江島の「かくれ切支丹」の調査におもむいて感銘したことがある。聖母マリアの像が氏神である神社の本殿のなかにまつら
れ、十七世紀の古文書に、オラショ(祈とうの言葉)が書きとどめられていて、そこには「パライソ(天国)にましますイカヅチノカミ」と書きとどめられてい
た。イカヅチノカミとは神道の神である。神仏習合ならぬ神基習合の歩みがあった。
紫式部は『源氏物語』の乙女の巻で学問について論及し、つぎのように述べている。「才(ざえ)を本(もと)にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(か
た)も強ふ侍(はべ)らめ」と。卓言である。紫式部と大和魂、『源氏物語』と大和魂というと、たいがいの人はびっくりするが、日本の古典でもっとも早く大
和魂について述べているのは紫式部であった。
ここにいう「大和魂」とは戦前・戦中に喧伝(けんでん)された日本精神の代名詞としての大和魂ではない。日本人の教養や判断力を指しての大和魂であっ
た。「才」とは「漢才」のことで、文学者である紫式部は漢詩・漢文学を内容とする「漢才」を意味した。私なりにいえば、漢才すなわち海外からの渡来の文化
をベースにしてこそ、大和魂がより強く世の中に作用してゆくということになる。
後に「和魂漢才」といい、幕末・維新期に「和魂洋才」といわれるのも、同類の表現であった。
日本文化の独自性は内なるものと外なるものをミックス(混合)・重層させて、その輝きを増してきたといってよい。日本の古典芸能でもっとも早く家元制を
採用した雅楽(ががく)じたいが、日本の楽舞はもとよりのこと、三国楽(高句麗・百済・新羅の楽舞)・渤海楽・唐楽・林邑(りんゆう)楽(ベトナムの楽
舞)を、日本で集大成した音楽と舞踊であった。
「日本らしさ」を再発見することは、ナショナルとインターナショナルな日本の輝きを見いだすことにつながる。 |
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