次の文章へ進む
前の文章へ戻る
「古典派からのメッセージ(2001年)」目次へ戻る
表紙へ戻る

 

福田恒存全集読書メモ

 

U.和魂洋才

 

 日本が生きて行くスタイルは和魂洋才しかないが、今我々に足りないのは洋才よりも和魂の方だ。和魂の衰弱(主体 性のなさ)こそが常に問題だ。ただでさえ周辺文明の宿命で不足しがちなのが「頑強な主体」である。もともと和魂とは、「才が、学んで得た知識に関係するの に対し、和魂の方は、これを働かす知恵に関係する」(小林秀雄「本居宣長」新潮文庫本上巻298n)ものである。無魂洋才では知恵のない知識や情報だけの 人になってしまう。これでは主体的な判断力も思考力も発達しない。今我々に必要なのは知識、情報よりも知恵であり自ら考える力である。

 福田全集第五巻所収の「論争のすすめ」で、福田氏は、和魂洋才論における和魂の衰弱説は俗論である、と言う。洋 魂を究めようとしなかったことこそ問題である、というのが、氏の論点である。僕は、氏の趣旨をこう理解する。即ち、西洋の魂を究めることは、即ち和魂の自 覚ではないのか。山本新氏著「周辺文明論」に書かれた近代インドにおける西洋との対決のごとき、真正面からの西洋の魂との対決が望ましいあり方なのであ る。要は「才」を採り入れることに急であった明治期日本は、「魂」の問題を置き去りにしてきた。福田氏はそのことを問題にしているのだ。

  一連の米国式の経済・社会のあり方(株主価値極大化、時価主義会計、短期的成果主義、確定拠出型年金等々)とどうつきあうか、という問題を投げかけられて いる現代日本のビジネスマンは、ちょうど西欧文明とどうつきあうかを問われた幕末・維新の武士たちと同じ境遇にある。今日、「和魂米才」の「米才」につい ては、情報があふれ返っている。ただし、米国において何故その制度、仕組が必要とされたか、その背景、つまりは米国の魂まで掘り下げた良心的な情報は少な く、ただ「流行だから追うべし」との笛吹きが多い。特に近年の経済論壇では、論者が本気でそうすべきであると考えているのかどうかさえ定かでない、単に米 国でこうしているから日本もそのようにすべきだ、といった粗雑で責任感の欠如したアジテーションが横行している。

 僕の携わっている人事制度の問 題についても、米国流の成果主義や職務給の導入を急げ、との無責任なアジテーションが盛んである。その点、人事コンサルタント高橋俊介氏の「職務給」につ いての記述は、米国でなぜ職務給が行われたか、文化的背景もきちんと紹介している点、良心的である(「職務給」とは、職務の内容、職責、必要となる能力要 件などの職務分析を実施して職務記述書を作成、職務の重い軽いを基に給与を決める仕組みのことである)。

 高橋氏の「カフェテリア・プラ ン」(日経BP)によれば、近年、日本企業で米国流の「職務給」を採り入れる企業が増えているが、米国で職務給が導入された背景には、公民権問題があるこ とに注意を要するという。公民権法(一九六四年施行)では、雇用・昇進機会を、性別、年齢、人種によって差別してはならないとされている。米国企業は公民 権法に抵触するリスクを避けるため、職務給を用い、「職務」だけを見て「人」を見ずに給与を決めるようになった。男女、老若、人種といった違いだけでな く、仕事に対する姿勢といったような「属人的要素」から目をそらしてきた。しかし、一九九〇年代になって、米国ではもはや職務給は時代にそぐわないものと なりつつあり、米国企業は「人を見る」経営に大きく方針を変えているという。こうした米国固有の文化背景を理解した上でなお、我々は本当に職務給を自社の 人事制度の根幹に据えるべきかどうか、よく考えるべきである。職務給の端的な例を出せば、「あなたは企画課長から庶務課長に職務が変わりましたのできょう から月給が五万円減ります」と言われて、我々は納得できるだろうか。「私は企画課長として何が足りなかったのですか」と、たちまち「人の能力、資質」が問 題になるに決まっている。「人」を評価することを人事の根幹に据えずに人事が成り立つはずがない。日本企業の人事がよくないのは、人を評価する基準や過程 があまりに不明確、説明不足なことであろう(非言語的直観に頼りすぎている、恣意的である、と言ってもよい)。だからと言って職務給に逃げ込んで公正で納 得性ある人事ができるとは限らないのだ。

 問題はやはり米国の制度(米 才)を取捨選択する主体である「和魂」の鍛練が足りないことである。即ち、自分とは何か、自分を動かしている原理は何か、の理解と自覚が足りないのであ る。主体的に米才の背景たる米魂にまで踏み込んでその価値を考えないことがいけないのである。和魂がしっかり確立していないと、無自覚に何でも取り入れて きた反動が来て、逆に極端な排他主義に振れ、必要な制度改革を行なえずに競争社会に取り残されてしまうこともあり得よう。

平成一三(二〇〇一)年三月七日