キリスト教受容の現代的課題
-死者儀礼、とくに墓地を中心に-
一 問題の所在
現代日本において、キリスト教系学校は私学全体の二割を占めている(1)。だが、そこへ通学するのはキリスト教信徒だけではない。むしろ、信徒ではない
生徒や教師が多数を占めている(2)。また近年、非信徒たちによる「キリスト教式」結婚式も盛んに行われている。とはいえそれらの人々の多くは、式を契機
に入信するわけではない。これらのことは、日本社会で「キリスト教」が表面的に受容されている証左と言えるだろう。そこで想起されるのは、「キリスト教信
仰が、一つの思想として受けとめられているために、信仰がまったく個人的いや私的なものとなっている」という指摘である(3)。そして、教会指導者たちは
「全人口の一%にも満たない信者数・・」と言い続けている。
だが、一%程度の信者数にもかかわらず、キリスト教に関する研究は少なくない。神学ばかりではなく、思想史や社会学的立場からの実証研究など、私たちは多くの成果をすでに手にしている(4)。
本稿は、日本社会におけるキリスト教受容の問題を、改めて考察する目的で執筆された。本稿の構成は以下の通りである。まず、代表的なキリスト教受容研究
として、森岡清美の四類型と武田清子の五類型を詳しく見る。次にそれらを応用して、教会指導者や信徒による死者儀礼の対応を三つに類型化して論じる。最後
に死者儀礼の問題を検討する中で導出された信仰の継承に言及する。なお、本稿では死者儀礼を、狭義の意味では宗教の別なく行われる死者関連の儀礼として用
い、広義の意味ではその儀礼に墓地などの施設を含めて記述する。また、死者がその子孫たちと死後も関わりを持ち続けるという観念に基づいて行われる儀礼を
先祖祭祀と呼ぶことにしよう。
それでは、これまでのキリスト教受容研究を簡潔にまとめておこう。
明治期以降、プロテスタント・キリスト教を受容した初期信徒には、旧士族や豪農などが多かったとしばしば指摘されている(5)。またその後も、東京をは
じめとする都市に多くの教会が建設された。農村への定着は、第二次大戦後もずっと、各教派ともに伝道の課題だった(6)。だが、キリスト教が定着した農村
もあったし、第二次大戦後には、集団改宗がおこった農村も出現した。その実態を把握しようとして、社会学者や人類学者たちは各地で現地調査を行った
(7)。その結果、先祖祭祀の影響力の大きさや、農村で教会が存続するためには、キリスト教が「イエの宗教」として定着する必要があることなどの知見が得
られた。これらは主に一九五○年代から七○年代までの研究成果である。その後も実証研究はさまざまな教派に対して進められたが、キリスト教受容への関心
は、この時期ほど高まってはいない(8)。
筆者は、これら先行研究が、キリスト教受容について語り尽くしているとは思えない。例えば、教会墓地やキリスト教葬儀に関してはあまり議論されなかっ
た。多くのプロテスタント・キリスト教会が教会墓地を建設し、各教派が葬儀の指針や具体的方法を刊行物として出版するのは、七○年代半ば以降のことである
(9)。また、後述するように、カトリック教会においても、第二バチカン公会議(一九六二-五年)の他宗教との対話路線を受け、八五年に著した小冊子で、
先祖祭祀への具体的な対応策を示した。つまり、死者儀礼の問題は、彼らの調査以降に大きな変化があったのである。
そこで本稿は、キリスト教受容の中でも死者儀礼に絞って考察を進めていく(10)。
まず議論を進める前に、キリスト教における死や葬儀の基本的立場を簡潔にまとめておこう。キリスト教において、死とは、神の下に迎えられ永遠の命をあずか
る希望の出来事である。葬儀は死者を供養するためではなく、あくまでも神への礼拝として行われる。人間にとって肉体の死は地上での生涯が終わっただけに過
ぎない。したがって、日本で実修されている先祖祭祀は、死者の供養であろうと、死者の霊による祟りを防ぐためであろうと、キリスト教の立場からは全く受け
入れられるものではない。新しい命への復活がキリスト教信仰の中心である以上、信徒たちは物体としての遺体に執着はしない。だが、だからといって教会は死
者を粗末に扱ってきたわけではない。死者を記念すること自体は、以前からさまざまな形で行われている。
なお、本稿で事例を挙げる際、諸教派を網羅して議論する紙幅の余裕がないため、カトリック教会と、プロテスタント諸教派でもっとも信徒数の多い日本基督教団が中心となる。
それでは次節で代表的先行研究を検討しよう。
二 受容の類型に関する先行研究
1 森岡の四類型
宗教社会学の立場によるキリスト教受容研究として、今なお参照されるのは森岡清美と西山茂の研究である(11)。そこでこれらの研究を整理し、その要諦を示そう。
森岡はメソジスト教会と組合教会(ともに現日本基督教団)、西山は日本聖公会、いずれも伝統的教派に属する教会を事例に、キリスト教の伝播・浸透・定着
過程について歴史的に概観し、現況を詳細に調査した。そして、農村、すなわち伝統的社会において外来の新しい信念体系がどのように受け入れられていくかを
考察した。その際、森岡は文化変容(=アカルチュレーションacculturation)の視点を導入した。文化変容とは、外来内在双方の異なった文化を
有する集団が、直接的な接触を経て、互いに(あるいは一方が)変化することを指している。すなわち、外来宗教であるキリスト教と農村の伝統的宗教習俗が、
それぞれどのように変化するかを観察するために用いられた概念である。
三つのモノグラフを著した森岡は、受容・定着の問題を個人的レベル・集団的レベル・制度的レベルという三段階に分けた(12)。そして、土着化は、外来
宗教が制度的レベルの定着に達した段階で用いることを提案した。さらに、外来宗教と他の社会体系との関係(拒否・容認)という軸と外来宗教の変容の程度
(変形・変質)という軸の二つをクロスさせ、土着化を「孤立(拒否・変形)」「狭義の土着化(容認・変形)」「秘事化(拒否・変質)」「埋没(容認・変
質)」という四つに類型化したのである(13)。
西山は、この変形と変質の差異を、宗教の帰属単位と神観念の変容で説明している。宗教の帰属単位が個人から集団(イエ)単位へ変容することを変形、唯一
的・普遍主義的神観念から雑居的・個別主義的神観念へ変容することを変質と呼ぶのである。森岡の変形・変質概念をより具体的に説明したと言えよう。千葉県
のある農村で質問紙調査を実施した西山は、過半数の信徒が仏壇や仏壇代替物を保持し、さらに四分の一の信徒が神仏に加護を祈願するような気持ちでそこへ向
かうことから、キリスト教信徒たちにも祖先信仰の影響が著しいと指摘した。そして、信徒たちの信仰が、イエ単位の受容という変形のみならず、神観念まで変
容する変質の状態にあることを検証したのである(14)。
森岡の土着化に関する四類型は、後に続く研究者の調査でも何度か検証され、その有効性が確認された(15)。だが、日本人が組織した「土着型キリスト
教」のような新しい教派を対象としたマーク・マリンズの研究にはこの類型は適さなかった(16)。この四類型は、森岡や西山の対象のように、いわば「静
的」社会における伝統的教派を扱う場合に適切な類型だったのである。さらに、本稿で扱う死者儀礼のように特定の現象の分析の際、宗教と社会との関係・宗教
の変容という二つの大きな枠組を組み合わせて、そのまま当てはめるのは適切とは言えまい。一つの枠組のみで考察した方が明解であろう。そこで筆者は宗教と
社会の「関係」に注目し、拒否と容認という概念を採用する。事例としては、個々の教会や信徒にも言及するため、次項で個人の受容類型を検討しよう。
2 武田の五類型
武田は「埋没・孤立・対決・接木(土着)・背教」という五類型を、著名なキリスト教信徒を例に挙げて説明し、個人の受容概念として提出した(17)。この五類型は、三○年を経た今でも、教会指導者がしばしば言及する信徒類型である(18)。
それでははじめに、この五類型を素描しよう。
「埋没」は、キリスト教の神と日本の神を同一と見なすタイプで、仏教的キリスト教、神道的キリスト教などを唱えた者を指している。征露論を唱えた本多庸
一のように日本国家へ忠誠を示すことに努めた人々が該当する。「孤立」は、神学研究に重きを置き、西洋の礼拝形式をそのまま受け入れ、日本的なものの考え
方・生活態度を捨てようとするタイプである。教会中心の礼拝と交わりに生きようとする彼らは、政治的・経済的・社会的領域に接触しないようにしている。昭
和五年頃、社会問題に関心を持って検挙された信徒の青年たちに関わろうとせず、超越的神学の研究に熱中した教会指導者などが該当する。武田はこの両者を、
外来宗教の土着化としては挫折だと見ており、この「誤り」を防ぐ試みとして、次の二つの類型を挙げている。
「対決」は、それまで抱いていた信仰形態と相対立し矛盾する要素を選び、真正面から対決するタイプである。内村鑑三や植村正久などが例示されている。
「接木(土着)」は、それまでの信仰形態から、積極的可能性を潜在させた要素を選択し、キリスト教の真理を受肉しようとするタイプで、賀川豊彦の他、内村
はこれにも含めている。
「背教」は、今まで信じてきた特定の信仰を捨てるタイプである。ただし武田は、ある程度接触を持っただけで離れる「卒業クリスチャン」と呼ばれる人々はこれに含めていない。一度入信したものの、その後、キリスト教を棄てる場合だけが該当するのである。
武田はこの五類型のうち、「対決」と「接木」を土着化の中心と考えている。だが、それぞれ「孤立」「埋没」へ向かう可能性を持つ。さらに、「背教」へ転ずる者もいる。
内村のように、それぞれの信仰歴の中で該当する類型が異なる場合もあるだろう。すべての人が熱心な信仰者のまま生涯を終えるわけではない。ある信仰を
持った人が、やがてその信仰から離れ、その後、再び信仰に熱心になることもあり得る(19)。そこで筆者は、この五類型を絶対的なものと見るのではなく、
この類型から、次の三つの基準を析出した。それは、日本社会の文化的要素の対応に関する「受け入れない・そのまま受け入れる・対決しつつそれを乗り越えよ
うとする」という対応である。これらの語彙に、森岡の用語を援用して「拒否・容認・変換」を当てはめる(20)。次節ではこの概念を検討しよう。
三 死者儀礼に関する三類型
森岡の言を借りれば、死者儀礼の問題は制度的レベルの問題ということになるだろう。
日本にプロテスタンティズムが渡来した幕末の頃は、すでに寺檀制度が定着しており、仏教寺院が死者儀礼に深く関わっていた。したがって、キリスト教会が
独自に墓地を新設することは難しく、葬儀自体も神官・僧侶以外はできないという状況の中、死者儀礼に対して、教会は積極的に関与することが困難だったので
ある(21)。
一方で、先祖祭祀を研究する社会学者やその他の研究者たちの事例報告によれば、現代日本では、イエの継承を第一義とした従来の先祖祭祀が実施されつつ
も、とくに近親者への追慕に基づく死者祭祀とも呼ぶべき儀礼が広く行われてきているという(22)。独自の墓地を建設する教会も増え、葬儀のあり方が各教
派・教会で議論されるのは、一九七○年代以降であり、このような先祖祭祀の変容が指摘された時期と重なっている(23)。
先祖祭祀に対して、教会側は「受け入れないか、受け入れるか」といういずれかを選択する。受け入れない場合は「拒否」ということになる。「受け入れる」
場合は、その方法をそのまま受け入れる場合の「容認」と、キリスト教的な意味づけを確認して(あるいは儀礼をキリスト教的意味を持つように変えて)受け入
れる場合の「変換」に分けられる。
それでは三つの特徴を見ていこう。
1 拒否
「拒否」は、キリスト教の儀礼だけを守り、先祖祭祀として行われるさまざまな儀礼を拒む対応である。
幕末以降、プロテスタント・キリスト教を受容した信徒や、その後、家族の中で最初に信徒となった者の多くは、先祖に対する宗教的行為全般を「偶像崇拝」と見なし、結果的に、仏壇や位牌の投棄・焼却という行動をとった。これが「拒否」の代表的対応である。
現在「拒否」の姿勢を明確に示している教派として、美濃ミッションが挙げられる(24)。
この教派は、一九一八年、米国人宣教師によって岐阜県大垣市に創設された。第二次大戦で一時中断するが、戦後すぐ復興し、大垣市と三重県四日市市など四
教会、教師八名、信徒一四四名が所属している。すでに五五年には独自の墓地を建設しており、すでに信徒が一○六名埋葬されている(人数はいずれも九八年末
現在)。
続いて、この教団で発行している小冊子の一部を紹介しよう(25)。まず基本姿勢として、「葬式の一切の行事の目的は唯一つ、死者の霊を拝み慰めること
である」ことから、「献花・焼香・遺骸におじぎ・写真におじぎ・弔辞・弔電・通夜・香典」などの死者儀礼に関わる行為は「死者の霊に」行うことだと記され
ている。そして、これらすべての行事を「悪鬼礼拝」と規定している。続いて、葬式の式次第が示され、さらに、その他の注意事項として、葬後の儀礼である
「記念会」も悪鬼礼拝であり、「墓参り」もすべきでないと記述されている。死は肉体が滅びることだが、魂は天にあるからというのがその前提である。
この小冊子が刊行されてから三○年以上経っている。だが、筆者が九八年三月に現地調査した際も、小冊子の記述は教会の基本方針であることが、牧師や信徒
たちとの面接で確認された。小冊子のやり方以外の葬儀方法は、すべて「妥協」として戒めている。したがって、キリスト教式の葬儀をよく知らないような葬儀
社を利用せず、熟知している牧師と信徒が中心になって、葬儀・埋葬を行っているという。
しかし、他教派はこれに追随していない。その意味で孤立しているとも言える。
美濃ミッション以外にも、日本の伝統的宗教習俗を拒否する教派はある。例えば、イエス之御霊教会では回忌・年忌を否定するばかりではなく、偶像崇拝として位牌の焼却を命じている(26)。他にも「拒否」を強調している教派の事例が幾つも報告されている(27)。
2 容認
「容認」は、先祖祭祀を宗教儀礼ではなく単なる習俗としてとらえ、そのまま実施する対応である。次節で述べる「変換」との違いは、その儀礼にどのような
意味づけを行っているかという点に表れる。つまり、形式上、従来の先祖祭祀のままでも、そこにキリスト教としての意味づけを示して実施している場合は「変
換」、そのようなことなく実施している場合を「容認」と見るのである。
一六世紀半ばに初めてカトリシズムが伝えられた頃、宣教師たちは先祖祭祀に対決的だったが、すぐに死者儀礼への配慮を見せるようになった。そして、一一
月を死者の月と定め、死者のためのミサを行うようになった(28)。それから四世紀以上経た第二バチカン公会議以降、カトリック教会は、他宗教を容認する
「対決から対話へ」という姿勢を打ち出し、エキュメニカル運動を展開している(29)。
日本のカトリック教会でもこれに沿った態度を示している。具体的には、「キリストの復活信仰に根ざした死者との関わりについて、より明瞭な問題解決を述
べ」る、実践の手引きとして小冊子を著した(30)。この小冊子は、日常生活で、諸宗教との関わりや、死者についての対処に悩む信徒に対し、心配や不安を
軽くするために刊行されたと述べられている。具体的な事項に関する問答の部分を見ると、仏式の法事は親戚のつき合い上行ってもよいことや、仏壇への供物も
問題ないとされており、きわめて寛容的態度が示されている。この背景には、「日本人の死者に対する儀礼の多くは、祖先に対する愛と尊敬から生まれた」から
だと見なす、カトリック教会の姿勢がある。だが、プロテスタント教会の指導者は、この対応を「妥協」だとして批判した(31)。
多くのプロテスタント教会では、先祖祭祀すべてをそのまま「容認」してはいない。だが、信徒一人一人に詳しく聞いてみると、地域で実修される先祖祭祀
を、宗教的意味を深く考えずそのまま受け入れていたという者もいる。具体的には、仏壇に供物を供え、盆・彼岸に檀家として僧侶に読経してもらい「先祖のた
めに行う」と述べる信徒がいた。
だが、「異教的要素の混入をおそれ、偶像崇拝をさけようとし」た教会指導者たちは、「日本の葬祭の心情と習俗をひとくくり」に「すべて偶像崇拝であると
きめつけ」る傾向にあった。その結果、先祖祭祀に対して「多くの『べからず』を語」るに止まった歴史的背景を忘れてはならない(32)。これは結局、キリ
スト教信仰を貫いた死者儀礼のあり方を、教会指導者が信徒に明示してこなかったということである。それゆえ、信徒たちの中には、焼香し死者を拝むことを問
題だと思わない者も出現するのである(33)。
3 変換
「変換」は、先祖祭祀を形式上そのまま踏襲したり、それに準じた方法で行ったりするが、その中にキリスト教としての意味づけを見出したり、儀礼に再解釈を付す対応である。
この立場の代表的人物として、日本基督教団の牧師岩村信二が挙げられる。彼は自らの著書で述べている通り、死者儀礼に関してキリスト教的意味づけを信徒
たちに示し続けてきた(34)。日本基督教団所属の教会指導者で、彼の影響を受けている者は、筆者が調査した人々の中に何人もいた。
美濃ミッションが厳しく批判した記念会を実施している教会は多い。その場合、教会指導者は、牧会上の配慮という点を強調し、「死者への主の恵みを感謝
し、懐かしみ、遺族を励まし、自らの死を覚え、やがて主に在って再会を望む」という意味を持つと説明することが多い(35)。そして、一一月第一日曜日に
逝去(召天)者記念礼拝や墓前礼拝などを毎年一度行う教会もある。また、マリンズの調査した「土着型キリスト教」の各派には、聖書を再解釈して死者の死後
における救いを提示しているところもある(36)。
これらの試みに対し「前夜式はお通夜であり、記念会は年回供養にほかならず」、「いかに死とその儀礼がもつ神学的意義が説かれようとも、民俗の儀礼の場
にとりこまれることなく、死と葬送の儀礼は成立しえない」と言う者もいる(37)。だがこれは、当該社会への定着において、形式を無視することはできない
という主張だとも読みとれる。その際「変換」の対応をとる教会側は、民俗の儀礼の場において、キリスト教の意味づけをどのように示すのかが問われることに
なる。筆者が調査してきた教派・教会・信徒の多くは「変換」型対応をとっていた。そこで次節では、具体的に教会墓地の状況を考察しよう(38)。
四 教会墓地への「変換」型対応
墓地は設置場所や形態などさまざまな観点で分類できるが、本稿では次のように定めることにした。すなわち、一人もしくは数名の具体的個性ある死者が埋蔵
される「個別墓」、いわゆる「先祖代々」が埋蔵される「イエ墓」、そして、教会やその他の集団の成員たちが埋蔵される「共同墓」の三つである(39)。
まず、キリスト教独自の霊園について述べておきたい。東北や関東には、複数の教会や単独の教会によって造成されたキリスト教霊園が、数カ所運営されてい
る。一般の公営・民営の霊園ではなく、キリスト教専用の霊園があるということは、キリスト教による独自の死者儀礼を、地域社会へ提示することになるだろ
う。千葉県にはバプテスト系教会が運営する霊園がある。この霊園には、一教会もしくは複数の教会による共同墓と、信徒一人もしくは家族の数人が埋蔵されて
いる個別墓が並んでいる。この霊園を利用する教会は首都圏全域に及び、教派も多岐にわたっている。一九七七年に第一霊園が建設され、二○○○年まで五度も
増設された。二○○○年三月時点で約二○○基の墓石が建立されていたが、個別墓と共同墓の比率は一一:九であった。筆者の観察によれば、毎年イースターに
は、個別に墓参に来る者もいるし、十以上の教会では墓前礼拝を行っていた。キリスト教霊園は、青森県や岩手県、神奈川県にも造成されている。
さて、福島県のカトリック教会で、市営霊園二カ所に教会墓地を保持しているところがある。この教会墓地はほとんどがイエ墓であり、それ以外には、宣教師
や修道女たちの個別墓がある。この教会では毎年一一月第一日曜日に墓前礼拝を行っている。イエ墓は百以上あるが、筆者の観察した一九九八年の礼拝参加者は
十数名に過ぎなかった。不参加の信徒によれば、近親者の逝去日付近の日曜日に墓参しているそうである。
筆者は調査した教会指導者たちに、教会墓地をなぜ建設するのかたずねた。すると、その回答は二つに集約できた。一つはキリスト教会という信仰共同体の証
として必要だとするもの、もう一つは信徒の実際的な要請への応答として必要だするものである。信徒たちにも同じ質問をしたが、同じような答えであり、とく
に前者の回答が多かった。だが、実際にはすべての信徒がこれを利用するわけではない。墓地は各家族の宗教施設であると見なす信徒たちの中には、非信徒の子
供たちが墓参しやすいようにと、自宅から近い公営霊園にイエ墓を新設する者も少なくないのである。筆者の調査してきた地方都市や農村の信徒たちには、「先
祖を子孫が祀る」という旧来の先祖祭祀観が残っているのであった。さらに、教会墓地は自分で墓地を持てない人たちのために、いわゆる「無縁墓地」的な存在
として必要だと述べる信徒たちもいた。
結局、多くの信徒たちは個人の事情を優先して教会墓地を利用し(あるいは利用せず)、死者儀礼を行っている。墓地の対応と信仰の真摯さが相関するとまでは言えないが、右記のような信徒の言動からは、キリスト教的意味づけを持った死者儀礼を行おうという姿勢は見られない。
教会墓地は、教会堂のように教会設立当初から必要な施設というわけではない。そのほとんどが、教会堂建築後に建設されている。したがって、多くの教会で
教会墓地の準備が徐々に整いつつある今後、キリスト教信仰に基づく死者儀礼のあり方を教会指導者が信徒へどのように示し、信徒がこれにどう呼応し実践して
いくかが問われ始めたのである。
教会墓地という制度レベルの議論をしてきたが、その際、墓の継承という問題が浮き彫りになってきた。先述したように、子供が非信徒であることから、教会
墓地ではなく無宗教霊園にイエ墓を設ける信徒たちは、信仰の継承についてはどのように考えているのだろうか。次節ではこの問題を掘り下げて議論しよう。
五 信仰の継承
従来のキリスト教受容研究によれば、伝統的習俗が強く影響力を持つ地方において、一人でキリスト教信仰を守ることは大変困難だとされた。だが筆者は、九
○年代の東京都、地方都市、農村で調査を行ったところ、東京のみならず、地方都市や農村でも、家族の中で一人だけの信徒は少なくないことが判明した。第二
次大戦後、「信教の自由」が広く社会に浸透している状況を鑑みると、現代日本において、家族で一人だけの信徒でも、その信仰を守ることは可能だと思われ
る。
もちろん、信徒たちは、キリスト教信仰が親から子へ継承されることを、望ましいと思っている。しかし、個人の信仰告白が基本である以上、強制すべきもの
ではないとも認識している。キリスト教は日本社会においてずっとマイノリティだった。彼/彼女は、自らの信仰を他宗教の人々に妨げられたくないと思うと同
時に、他人の信仰を(反社会的だと思わない限り)否定しない態度をとるのである。それは、「仏教徒だった故人が大切にしていた仏壇は、自分も大事にしなけ
ればならない」という信徒の語りに代表されるだろう。
キリスト教のイエ墓を新設する信徒は、決して多くない。それは、次世代の子供たちがキリスト教信仰を持つかどうか分からないと思っているからである。つ
まり、キリスト教の「イエの宗教化」を望まないのである(40)。このことは、かつて農村の調査において、キリスト教が「イエの宗教化」して定着していた
事例報告からすれば、奇妙に思えるかもしれない。だが、それを変形と考えるならば、現代日本では、変形されずにキリスト教が定着していると見なせるのでは
ないだろうか。
しかし、現代の信徒が信仰に真摯であるとは即断できない。なぜならば、「イエの宗教化」ばかりではなく、個人の信仰を重視する「クリスチャンホーム化」
も推進されていないからである。その事例として、牧師とその妻/夫ですら、自らの子供について(信仰を持つかどうか)、「祈る」だけと述べる者が少なくな
いことを指摘しておきたい(41)。
このように信仰の継承に対して信徒が積極的でないのは、伝統的なプロテスタント・キリスト教に限らない(42)。「容認」の例として挙げたカトリック教
会は、筆者のこれまでの観察によれば、教会墓地にイエ墓を建設しているところが多かった。教会行事の墓前礼拝より、近親者の逝去日を重視する信徒の行動か
らは、(カトリック教会ばかりではなく、親や祖父母がすでに信徒だった二代目、三代目の)信徒の中には、信仰が形骸化している可能性も否定できない。
「拒否」の事例で紹介した美濃ミッションは、クリスチャンホームの信徒が全体の過半を占めている。教会内部もまとまっていて、信徒たちはトラクト配布な
どの活動を熱心に行っていた。だが、筆者の観察する限りにおいて、信徒数の拡大には結びついていない。もちろん、信徒数だけが教会活動の成果をはかるもの
ではない。さまざまな形で、信徒・非信徒へキリスト教信仰を伝えることは可能である。この教派の指導者は、常々「神に忠実であることを優先し、信徒数増加
によって信仰の程度を下げたくない」と述べている。まさに「拒否」を貫く教会なのである。そしてこのような対応は、決して日本のキリスト教界において主流
ではない。
「変換」を試みる多くの教会では、クリスチャンホームの形成が必ずしも達成されてはいなかった。キリスト教的意味づけを重視した死者儀礼を行い、クリス
チャンホームが多い教会でさえ、その信徒たちは仏教寺院や無宗教霊園にイエ墓を保持しているのである。死者儀礼の諸問題と個人の信仰を分けて考える信徒が
多い日本のキリスト教は、現時点では少なくとも「ゆりかごから墓場まで」の宗教とは言えないだろう。
ここまでの議論によって、墓を通じての「イエの宗教」としても継承されず、クリスチャンホームという形でも継承されない日本のキリスト教は、結局、「個人の信仰」として定着していることが、改めて明らかになったのである。
日本の教派・教会・信徒たちは先祖祭祀に対し「拒否・容認・変換」という三つの対応を示してきた。一方、先述したように、日本全体ですでに、近親者の追
慕としての死者祭祀が広く行われている。にもかかわらず、教会指導者には、旧来の先祖祭祀だけを拒否するだけに止まっている者も依然としている(43)。
こうした状況の中で、教会指導者や信徒たちは、墓の継承ではなく信仰の継承を議論するに至らなかったのだろう。
だが、伝統的教派で信仰が継承されなくても、キリスト教全体の信徒数が大きく減少しないのは、家族で初めて洗礼を受ける信徒、すなわち初代信徒が増加し
ているからだと考えられる。そこで、筆者は伝統的教派の動向を観察し続けるとともに、信徒数が近年も増加している福音派や聖霊派にも、今後、注目していき
たい(44)。
六 おわりに
代表的なキリスト教受容研究の検討、そこではあまり議論されなかった死者儀礼に関する筆者独自の三類型の提示、そして墓の継承から信仰の継承へと考察を
進めてきた。この議論の過程で導き出された信仰の継承の問題は、個々のキリスト教会ばかりではなく、筆者にとっても今後の大きな課題である。
最後に、前節までの議論を次のように要約して、本稿を閉じることにする。
(一)日本の先祖祭祀に対して、キリスト教会や信徒は「拒否・容認・変換」という三つの対応のいずれかをとる。「拒否」は日本社会に広く受け入れられ
ず、孤立しているように見えることもある。多くの指導者は「変換」型対応で、キリスト教的意味づけということを心がけてさまざまな試みを行う。だが、信徒
の中には宗教的背景などを考慮せず、従来の儀礼をすべて「容認」してしまう者もいる。
(二)信徒は教会が墓地を保持することの意義を、キリスト教信仰の証という観点から賛成する。だが、墓地は各家族で保持・継承すべきと見なしている者も多い。そこで、実際には自ら墓地を用意できない者のため存在すると認識している。
(三)右記の理由の一つに、多くのキリスト教会において、信仰の継承が必ずしも促進されていなかった点が挙げられる。信徒は「イエの宗教」化を望まない
一方で、無宗教霊園にイエ墓を建設している。さらに、クリスチャンホーム化も進まず、日本のキリスト教は、「個人の信仰」に止まって定着しているというこ
とが判明した。今後は、墓の継承はもとより、信仰の継承が、キリスト教受容における大きな課題だと言えるだろう。
註
(1)井上順孝「近代日本の宗教と教育」(國學院大學日本文化研究所編『宗教と教育』弘文堂、一九九七年)、一四-二○頁。
(2)カトリック系小・中・高等学校における信徒の割合は、生徒・学生が五%未満(一九九三年)、専任教職員が約三二%(一九八九年)に過ぎない(北川直利『ミッション・スクールとは何か』岩田書院、二○○○年、一七-一八頁)。
(3)古屋安雄・大木英夫『日本の神学』(ヨルダン社、一九八九年)、二一八頁。
(4)筆者は「宗教と社会」学会の「日本社会とキリスト教」プロジェクトの一員である。二○○○年三月二七日には孝本貢明治大学教授とともに「『日本社会
とキリスト教』に関する社会学的研究のサーベイ」という題目で口頭発表した。その際、一九五○年代から二○○○年までに刊行された論文・単行本を孝本とと
もに精査し、百本ほどの文献目録をまとめた。今後さらに検討し直し、公表する予定である。
(5)明治初期は、「旧武士層出身の士族信徒」のうち、「社会的分解の過程にあってなんらかの地位を確保しえたもの」、明治一○年頃からの十数年は、豪農
など「日本農村における中上層を形成するもの」が中心的役割を果たしたという(工藤栄一『日本キリスト教社会経済史研究』新教出版社、一九八○年、六五
頁)。また、井門富二夫は、昭和八年や二七年の統計資料を用いて、信徒が東京など大都市に多く分布し、高学歴でいわゆる知識層に多いことを示した(井門富
二夫「我国プロテスタントに於ける信徒構造の変遷」『宗教研究』一三九号、一九五四年、一-三五頁)。
(6)代表的教派七つにおける教会・信徒の分布を比較し、農村伝道の具体策を検討した佐藤裕一訳著『農村伝道プログラム』(キリスト新聞社、一九六二年)を参照。
(7)プロテスタント教会の代表的研究は、森岡清美編著『地方小都市におけるキリスト教会の形成』(日本基督教団宣教研究所、一九五九年)や、西山茂「日
本村落における基督教の定着と変容」(『社会学評論』一○一号、一九七五年)、五三-七三頁、大濱徹也『明治キリスト教会史の研究』(吉川弘文館、一九七
九年)等を参照。カトリック教会の集団改宗を扱った研究としては、鈴木範久『日本のカトリック村』(宗教学研究会、一九七四年)、安齋伸『南島におけるキ
リスト教の受容』(第一書房、一九八四年)等を参照。
(8)池上良正『悪霊と聖霊の舞台』(どうぶつ社、一九九一年)や、宮崎賢太郎『カクレキリシタンの信仰世界』(東京大学出版会、一九九六年)などの緻密な実証研究は、九○年代に提出されている。
(9)日本基督教団信仰職制委員会編『死と葬儀』(日本基督教団出版局、一九七四年)等。
(10)「キリスト教の死者儀礼」に関する筆者の研究は、以下のように展開している。
まず、一九九一年から三年間、東京都大田区の教会で仏壇や寺院墓地などを持つ信徒たちへ質問紙調査などを行った(川又俊則「死者儀礼におけるキリスト教
的意味づけ」『常民文化』一七号、一九九四年、一-二五頁)。その後、一九九四年から九八年にかけて、東北地方の日本基督教団所属教会で現地調査を行っ
た。そして、東北各県の教会墓地の実態を考察し(同「キリスト者の先祖祭祀への対応」『常民文化』一八号、一九九五年、二三-四三頁)、福島市の教会を対象に事例研究を著した(同「教会墓地にみるキリスト教受容の問題」『年
報社会学論集』一一号、一九九八年、一九二-二○二頁)。さらに、教会墓地の建設場所に関する問題点を考察した(同「キリスト教会の日本社会への適応」
『国立歴史民俗博物館研究報告』八二集、二○○○年、印刷中)。筆者は現在も、関西・沖縄などで、教会墓地調査を断続的に実施している。
(11)森岡清美「日本農村における基督教の受容」(明治史料研究連絡会編『近代思想の形成』、御茶の水書房、一九五九年)、一九三-二四○頁、同、前掲
書、同「日本農村における基督教の土着化」(『社会科学論集』一二集)、一九六五年、一-八二頁。および、西山茂、前掲論文。
(12)森岡清美「『外来宗教の土着化』をめぐる概念的整理」(『史潮』一○九号、一九七二年)、五二-五七頁。
(13)森岡清美、前掲論文、一九七二年。第二次大戦後の「キリスト教ブーム」が過ぎ去った六○年代、教会指導者は盛んに土着化を論じた。だが、言葉の意
味を巡る議論や、民族・国家のレベルに敷衍した議論が中心だった。伊藤恭治・相沢良一『福音は土着できるか』(日本基督教団中央農村教化研究所、一九六三
年)などを参照。また、土着化に関して、桜井徳太郎と森岡・武田の差異が論争となった(この総括として、長谷部八朗「『土着化』概念とその課題」『宗教学
論集』一○号、一九八○年、六三-七四頁を参照)。
(14)西山茂、前掲論文。
(15)磯岡哲也『宗教的信念体系の伝播と変容』(学文社、一九九九年)。
(16)Mullins,Mark R. Christianity Made in
Japan : A Study of Indigenous Movements.
University of Hawaii Press. Honolulu. 1998.
(17)武田清子『土着と背教』(新教出版社、一九六七年)。
(18)例えば、小川圭治「日本のキリスト教受容をめぐって」(『季刊日本思想史』二二号、一九八四年)、七八-九三頁。
(19)筆者は、信仰の濃淡を「信仰グラデーション」として記述することを提案している(川又俊則「信者とその周辺」大谷栄一・川又俊則・菊池裕生編著『構築される信念』ハーベスト社、二○○○年、一一-三二頁)。
(20)この三類型は、末松隆太郎の「全面対決・容認=妥協・選択対決」(末松隆太郎「日本における祖先崇拝と福音」『福音主義神学』二一号、一九九○
年、二二-四二頁)、勝本正實「拒否・孤立、妥協・埋没、対決・克服」(勝本正實『日本の宗教行事にどう対応するか』いのちのことば社、一九九○年)とほ
ぼ同義である。筆者は、より端的な語句として、本文に掲げた三つを提案したい。
(21)奥村直彦「近江ミッション『共同納骨塔事件』」(『キリスト教社会問題研究』三五号、一九八七年)、一○四-一四四頁は、教会が独自の納骨堂を持とうとしたときに、寺院が激しく反発した昭和初期の事例を紹介している。その他、註(5)の先行研究も参照。
(22)孝本貢「社会学における先祖祭祀研究の現在」『国立歴史民俗博物館研究報告』(四一集、一九九二年)、二三-三一頁等を参照。
(23)一九七○年代以降に教会墓地が多く建設された背景として、筆者は調査経験に基づき、仮説的に次の二つを挙げたい。一つは、墓地供給の増加である。
六○年代以降、民営霊園が大規模霊園を東京・大阪など大都市圏に造成し、地方でも市営霊園が造成され、教会は墓地を取得しやすくなった。もう一つは、第二
次大戦後、三○年ほど経ち、教会堂再建などの重要な問題が解決し、同時に、戦後ブーム期に信徒となった若い世代の親世代が逝去し始める頃となり、墓地問題
を教会の問題として取り組むようになったことである。
(24)この教派の歴史は、美濃ミッション『伊勢神宮参拝拒否事件(再版)』(美濃ミッション、一九九二年)が詳しい。それによれば、この教派は一九三三年、所属していた小学生三人が伊勢神宮参拝を拒否したために、迫害を受けた経験を持っている。
(25)美濃ミッション『日本における真のキリスト教葬式の手引き』(美濃ミッション、一九六四年)。
(26)安齋伸「イエス之御霊教会」(五来重他編『講座日本の民俗宗教』五、弘文堂、一九八○年)、二六八-二七九頁、同、前掲書を参照。だが一方では「先祖の身代わり洗礼」を行うなど、遺族への配慮も見られる(Mullins,
op. cit.,p.150)。
(27)日本アライアンス教団の牧師が、寺院の住職と協議して檀家を断らせたという報告もある(いのちのことば社出版部編『レポート地方伝道』いのちのことば社、一九九○年)。
(28)海老沢有道・大内三郎『日本キリスト教史』(日本基督教団出版局、一九七一年)、三七頁。
(29)キリスト教神学の中で、他宗教を解釈する次の三つの概念は重要である。すなわち、他宗教を認めない排他主義、他宗教にも救いはあるがそれはキリス
トによる購いの結果だとする包括主義、他宗教をすべて同等の存在と認める多元主義の三つである。田丸徳善・星川啓慈・山梨有希子『神々の和解』(春秋社、
二○○○年)は、この概念を簡潔かつ丁寧に解説している。また、カトリック教会では同化・土着化などの語彙にかわって、宗教(キリスト教)の文化内開花
(=インカルチュレーション
inculturation)を提唱している。広義の意味は、接触する文化の一方あるいは双方の変化を指す。この「文化内開花」については、ヤン・スィン
ゲドー「カトリックの諸宗教対話政策の展開と背景」(中央学術研究所編『宗教間の協調と葛藤』佼成出版社、一九八九年)、五一-六七頁、同「キリスト教と
日本の宗教文化の出会い」(脇本平也・柳川啓一編『現代宗教学』四、東京大学出版会、一九九二年)、五九-八一頁を参照。
(30)日本カトリック諸宗教委員会編『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』(カトリック中央協議会、一九八五年)、一三頁。
(31)ヤン・スィンゲドー、前掲論文、一九九二年を参照。
(32)幸日出男「キリスト教と『祖先崇拝』の問題」『出会い』八(二)、一九八五年、五二-五六頁)。
(33)近年では各地にキリスト教式葬儀を専門に扱う葬儀社もある。その業者の発言として、木下勇「葬儀業者としての実務の立場から」(日本ルーテル神学大学教職神学セミナー編『現代葬儀事情』キリスト教視聴覚センター、一九九四年)、二四四-二五七頁、を参照。
(34)岩村信二『三代目のキリスト教』(新教出版社、一九九○年)、森岡清美・岩村信二『教会教育による教会形成』(新教出版社、一九九五年)。また、
日本の文化に根ざす教会を「文脈化」教会と主張している福田充男『文脈化教会の形成』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、一九九三年)も参照された
い。
(35)新島襄の記念会は、明治二七年に同志社主催で行われた(萩原俊彦「新島襄の墓碑と同志社人」『キリスト教社会問題研究』三七号、一九八九年、一二
一頁)。また、「弟子たちが主イエスを懐かしく思い出し、語り合う」ものと同じという意味で、「単なる世間話に終わらず、終始亡くなった方の思い出を語り
合う。食事を終わったときに記念会を終わる」という提案もある(岩村信二、前掲書、五四-五五頁)。
(36)Mullins, op. cit., pp..129-155.
(37)大濱徹也「キリスト教会にみる死者供養」(『真理と創造』一七(一)、一九八七年)、六○-六二頁。
(38)先祖祭祀の拠点の一つである仏壇に関する調査を二つ挙げておく。まず、デヴィッド・リードの質問紙調査である(デヴィッド・リード「日本のキリス
ト教信者の祖先関係」『神学』五一号、一九八九年、九五-一一九頁)。リードは「日本人の宗教文化に関する意識調査」を行い、信徒(二五%が仏壇保持)と
非信徒(四三%が仏壇保持)の宗教意識の差異は、「家庭内の仏壇の有無」が関連していると結論づけた。次に、磯岡哲也の民俗調査である(磯岡哲也、前掲
書)。磯岡は日本聖公会の二つの教会の信徒を中心に調査を行い、神棚などが減少しても仏壇保持率は持続することや、「先祖のまつり(または記念)は大切」
だとの意識を持つ信徒が多いことを指摘した。筆者も、逝去者の写真や十字架を置く場所を信徒が重視することを指摘したことがある(川又俊則、前掲論文、一
九九四年)。また、待井扶美子はカトリック教会、日本基督教団、日本聖公会などの伝統的教派における葬儀式文の変遷を検討した(待井扶美子「日本のキリス
ト教会における死者への対応」『宗教と社会』六号、二○○○年、六一-七三頁)。
(39)川又俊則、前掲論文、一九九八年において、筆者は教会墓地を「分譲墓・共同墓・納骨堂」に区分した。本稿では、レフリーの先生の助言をいただい
て、教会以外の墓を考慮したため、「個別墓・イエ墓・共同墓」という三区分で議論する。個別墓とイエ墓が「分譲墓」に相当する。
(40)本稿では、夫婦それぞれが信仰を告白した信徒の場合「クリスチャンホーム」と見なしている。そして、「クリスチャンホーム化」は、子供たちに信仰
告白を促すように伝道すること、「イエの宗教化」は子供の信仰を考慮せず、その家の代々の宗教と規定することに区分しておく。
(41)筆者は<牧師夫人>のライフヒストリー調査を進めている。これまでの調査では、子供がキリスト教信仰を持つことを、強制せず、「祈
る」だけだったと述べる者も少なくなかった。ただし、同時に、家庭礼拝などを子供が小さい頃からずっと行っていたとも語っている。また、子供たちの中学・
高校生時代に日曜礼拝出席をめぐって葛藤があったという者も多かった。このライフヒストリーの詳細は、稿を改めて報告する。すでに筆者は、<牧師夫
人>に関して、彼女たち自身が行ったアンケート調査を分析したことがある(川又俊則「<牧師夫人>が抱える諸問題に関する一考察」『立教女学院短期大学紀要』三一号、二○○○年、五七-七四頁)。
(42)信仰の継承に関して、新宗教研究では幾つもの成果がある。杉山幸子「外来宗教と民俗宗教のダイナミクス」(『宗教研究』三二一号、一九九七年)、
四○一-四二六頁、猪瀬優理「宗教集団における『ジェンダー』の再生産(『現代社会学研究』一三号、二○○○年)、六一-七九頁等を参照。
(43)川又俊則、前掲論文、一九九五年ではこの問題を詳細に検討した。
(44)これまで福音派に関する実証的な研究はあまり見られなかった。近年のものとして、中村敏『日本における福音派の歴史』(いのちのことば社、二
○○○年)が挙げられる。聖霊派に関しては、例えば、池上良正「近代日本の初期キリスト教聖霊派における神癒の信仰」(『文化』一九号、二○○○年)、二
一-五一頁がある。