養老 孟司 専門委員
ようろう たけし   1937(昭和12)年生まれ     
解剖学者、北里大学大学院教授             
脳の研究の第一人者として知られる他、社会論評も多数。 
代表著書に「唯脳論」「涼しい脳味噌」「ヒトの見方」など
                          


Q   高度情報通信社会における「豊かさ」についてどう考えるか?

養老  技術は進歩し続けるだろうが、日本の場合、進歩の一方で古い物が無くなってしまい、幅が
広がらないのが問題である。コンピュータおたくのような最先端と、マレーシアのジャングル
のような原始的なものが両立するような幅の広さが、私は豊かさだと思う。
例えば、私は解剖をやっていたが、分子生物学が盛んになってくると大学では徹底的に力を
入れて、一方、解剖なんて古い学問だからつぶしてしまえ、という論調になる。私は、古い解
剖学をせめてミュージアムの形で残したかったが叶わなかった。今は新しいものが大事に見え
ても、さらに次の時代には、また古い方がきっと必要になってくる。しかし、みんな「こっち
側をやる時にどうして反対側が要るのか?」と思ってしまうようだ。そうではなく、「こっち
側を強くするためには、反対側こそ大事」なのに。
同様に、マルチメディアをどんどん進めるのだったら、反対側に何を残すかを一番考えなけ
ればいけない。

Q   日本では、「技術の進歩は、過去を否定してしまう」事になるのか?

養老  「過去の否定」という問題には、もっと別の問題が含まれている。
いろんな会で「アメリカVS日本」という議論に遭遇するが、皆気付いていないのが、「日本
とアメリカが如何に似ているか」という事だ。共鳴する部分がなければ、これほど急速に日本
がアメリカナイズされるわけがない。
何が共鳴するそっくりな部分かと言えば、アメリカは「歴史が無い国」で、日本は「歴史を
消す国」であるという事だ。日本は、戦後には戦前の軍国主義を、明治維新は江戸の封建主義
を、というように前の歴史を消し続けてきた。もっと言うなら、アメリカはヨーロッパ社会を
否定して生まれたが、縄文人がいる所に大陸からやって来た弥生人を考えると、日本も2000年
前はアメリカと同じ建国の仕方だった。
ただ、歴史がある分、日本の方が新しい行動をする時にアメリカより緩やかである。それは
、一応消しているが体の中に実は存在する「歴史」が、極端なものをブロックしようとするか
らだ。コンピュータに関し、アメリカの方が強いのは典型例で、歴史的な事を抱えていると、
新しい事に対し「こんな事をやってもいいのか?」という声が多数出て来て、モタモタする。

Q   伝統みたいなものは日本人の中に残っているが、表面上は隠して行動しているという事か?

養老  見事に残っていて、私はそれを「日本の非成文憲法」と呼んでいる。意識されてないが、世
間のルール、つまり日本共同体のルールというものがある。ちなみに和魂洋才の「和魂」とは
、まさにその事。日本人は、無意識のルールで行動を規定している。
脳死問題は良い例である。人口比で考えると本当にまれなケースである脳死移植が、何故あ
んなに大きく騒がれたのか? それは、日本の「非成文憲法」に引っかかる問題だからなのだ
。つまり、死というのは「共同体を抜ける」という事であり、「死とは何か」を考える事は共
同体の基本的なルールをどうするかに関わる事なのだ。脳や心臓について医学的な専門家では
ない人も脳死臨調にいて、しかも反対意見を述べているのが象徴的である。
アメリカでは常識的に死んでいる状態であっても、検死官が死と言うまでは、法的には死ん
でいない事になる。それが法治国家というものだ。しかし日本では、臓器移植法案が成立する
以前、ある医者が「脳死を死」としたのを行政が止めるという事件があった。死亡診断書を書
く権限を持つ医者の判断を行政がストップさせた。私は、日本は奇妙な国だと思ったが、つま
りは「共同体全員のルールに関わる事を医者だけで勝手に決めて良いのか」という「非成文憲
法」のあらわれなのだろう。

Q   一般的には世の中は「変革期」と言われているが、日本の共同体に何か変化を感じているか


養老  日本の村落共同体の原理は、現代社会でむしろ強くなっているのではないか。いじめがひど
くなっているのはそのせいだと思っている。暗黙のルールを、早くから心得る子供となかなか
分からない子供がいて、覚えない方はいじめられる。大人の世界でも、いびりがひどくなって
いる。

Q   指摘の「現在、共同体意識が強くなっている」という背景は何だろうか?

養老  今、7割の人がサラリーマンであるそうだが、つまり帰属する共同体といえば会社である。
「社畜」と呼ばれるようにそれは大変強いものである。最近さすがに弊害が分かってきて、会
社に帰属しない若者も出て、ばらけてきたように見える。ところが、若い人たちも行動原理は
、やはり旧来の村落共同体意識を無意識のうちに使っている。オウム真理教はそうした例だと
思う。

Q   オウム真理教の出現は「共同体」という観点からはどう位置づけられるのか?

養老  オウム真理教については私の理解を越えるところが多いので、代わりに、戦後日本が進めて
きた都市化とイデオロギーという観点で話をする。
都市文明、特に初期は、ローマの水道のようのに昔から必ず「土建」をやるものである。し
かし、それは必ず資源やエネルギーの限界に突き当たって終わりになる。例えば、木材が資源
だった4大文明の地が、現在すべて荒れ地であるように。
では、土建が行き詰まった次に何が出てくるのか? 例えば、兵馬俑に代表される土建文化
の秦が倒れた後、出てきた漢は儒教国家であった。つまり、土建が倒れると、普通の都市文明
は「土建」から「イデオロギー」に切り替えるのである。ローマ帝国もコンスタンティヌス大
帝の頃からキリスト教に改宗する。ちなみに理科的に言うと、「高エネルギー社会から低エネ
ルギー社会へ」「体よりは脳という社会へ」という事になる。
物質的に限界に達し、土建が崩れるという意味では、今の日本がその段階にあたる。だから
私は、次はイデオロギーの時代になると見ているが、その中身が問題である。どんなイデオロ
ギーが出てくるかは全く分からない。例えば、それがオウム真理教のようなイデオロギーであ
る可能性も否定できない。
「そんな事しちゃいけません」という言葉などのように、極端なものをある程度ブロックす
るのが農村共同体の役割だった。しかし、農村共同体である日本でさえオウム真理教が出て来
るような事が起こっている。
しかし、マルチメディアという事を考えると、土建が行き詰まった都市文明がイデオロギー
に行かずに、代わりに技術に行ってしまったのかもしれない。

Q   もしかしたら、無意識であった日本の「非成文憲法」を明確化すべき時期に来たのだろうか


養老  難しすぎて、私にも分からない。長年、日本人が「非成文憲法」を明確化しないで来たのは
、いろいろなメリットがあったからなのだろう。ただ、脳死問題やグローバリゼーションの中
で日本が体験している摩擦など、今起こっている問題は「明確化されてない」から起こってい
る問題だと思う。「暗黙のルール」が意識化される事で、日本が良くなると信じるしかない。

Q   「情報化社会になり、世代間の溝が広がっている」との意見があるが、どう思うか?

養老  共同体のルールが変質している、という事だろう。テレビの影響は大きいのではないか。一
方的で、話しかけても返事をしないテレビというものが、若者の行動様式を変えているのでは
ないか。話し上手だが聞き下手であるとか、生の人間が苦手で距離を置くとか、傷つきたくな
いし傷つけたくないというように。距離を保つツールとして、携帯電話や電子メールはさらに
その傾向を強めるのではないか。

Q   メディアは、若者を変質させているのか?

養老  そう思う。今の若い人は、「自分」と「知る事」が分離していると思っている。例えば、「
CD-ROMの中に知識は蓄えられていて、自分という主体がそれを利用する」と思っている。しか
し、日本人にとって主体は自分ではなく無意識の共同体である。
そもそも「私という個人があって」というのは錯覚で、知識・書かれた物の方が実体だと私
は思っている。つまり、書かれた物は固定していて変わらないが、その周りにいる人間は変わ
る。「私がコミュニケーションしている」と思うのも同様の錯覚だと思う。出された言葉は独
立に存在していて変わらない。それに寄ってたかっている脳は絶えず変化している。

Q   マルチメディアの発達により、むしろ社会が悪くなるのでは、という悲観論があるが?

養老  個人的な経験では、私はマルチメディア時代はおもしろいと思っている。
友人がくれた、あるパソコンゲームを私は正月休みには徹夜して、今も3ヶ月経つが、まだ
毎日やっている。61歳の私が、徹夜して出来るという事は、私のこれまでの人生の方が、この
ゲームよりもつまらなかったという事だ。こんなに私が一生懸命になれるほど、いかにパソコ
ンゲームがおもしろいというか、人生で起こる程度のバリエーションはゲームの中に入ってし
まうという事だろう。

Q   この情報化社会において、国はどういう役割を果たすべきなのか?

養老  国家の役割は、最終的には共同体の維持に尽きる。国として共同体を維持していく方向なの
か、また、日本という共同体は維持する価値があるのか、という事。
維持する価値があるかという議論になると、文化的伝統の根幹になっている日本語をどうす
るかという問題にもなってくる。

Q   「共同体を維持するには日本語の問題が重要」というのはどういう意味か?

養老  具体例で言うと、先日、看護婦が消毒液を間違えて点滴した事件が起きたが、もし薬の名前
をカタカナではなく「消毒薬」と日本語にしていればこんな間違いは起こさない。日本語を使
うんだったら、そこは変えていかなければ。
日本は、非西洋言語の国の中で自国語で科学の教育が出来る、まれな国だった。明治には、
硫酸とか塩酸とか化学物質の名前を頑張って漢字にしてきたが、現在は無理な時代になってし
まった。パソコンに関しても同じ事が言えるだろう。

Q   パソコンの世界では、日本語は「変換」が必要な限り、英語より不利であり続ける、との意
見があるが?

養老  かつて「日本語を仮名だけにしてしまえ」という論もあったが、日本語から漢字はなくせな
いと思う。一方、朝鮮語は漢字を除いてハングル文字だけに出来る。その違いは、朝鮮語の中
での漢字には音読みしかないのに対し、日本は漢字に訓読みを作り日本語化したからだと思う

確かに、日本語を使う事により「得る利益」と「失う損失」を、我々は常に計算していなく
てはならないが、共同体の事を考えると日本語は抜けないだろう。例えば「欲」という言葉に
は、我々は無意識だが、すでに仏教をベースとした日本的な概念が組み込まれていて、欧米人
には通じない。しかし、こういった例が文化という事だ。
ちなみに、そうした「文化」は、本来行政が担うべきものである。しかし一方で、行政がや
ると必ず摩擦が起こる。その摩擦をどう調整するかが外交で大事な事。日本の共同体側が悪け
れば、「非成文憲法」の憲法改正をやらなければならない。日本は和魂洋才と言って、そこを
うまくやらないで来た。

Q   行政がこれからの政策を考える上で何か指摘があれば教えて欲しい。

養老  行政は、もっと「どうするか」を明確に言って欲しい。間違っても良いから、例えば、マル
チメディアに関し「うちは将来こうします」と言うべきで、それに知恵を集めればいい。
また、はっきり言うと周りが反対の事をしやすい。例えば、東大がこれをやります、と言う
と慶応は別の事が出来る。日本はそれが無いから全部金太郎飴になってしまう。はっきり言わ
ずに責任者を明確にしないのは、一揆で首謀者を分からなくした「傘連判状」と同じ。行政が
そうなっては駄目で、「重要だからこれをやる。あとの事は知りません。」と言っても良いく
らいだと思う。
マルチメディアに関しても、はっきりと「こうします」と進めれば、適応する人間が出てく
るだろうし、一方で適応できない人間は反対側に違う世界を作る。両端がしっかりすると、そ
の他大勢の真ん中の人は楽に暮らせる。日本は困った事に真ん中を狙う。足して2で割ったっ
て意味がない。

[インタビュー: 1999(平成11)年4月1日 ]