日本丸はどこへ(2)
…何が問題なのか(1)…仏作って魂入れず
1995.12.1 発行 (VOL.3)掲載
個人の生活においても、目標及び生活を規制する指針を失しなうと、乱れを生じる
ことは避けえない。まして、大きな組織の場合には、その乱れもはなはだしいものに
なろう。
前回見てきたように、日本社会の乱れは、明治以来日本が求めてきた‘富国’の完
成による目標の喪失と、舵となる‘タブー’の破壊によって生じている。
目標の喪失状況は前回検討した。それではタブーという舵は、何が原因でどのよう
に破壊されたのだろうか。一言にして言えば「仏作って魂入れず」ということなのだ
が、「経済大国を完成させることにのみに邁進して、その間、人間の陶治(教育)を忘
れた」ということにつきる。
その分析に入る前に、破壊されたタブーというものがどのようなものであったの
か、ということを江戸時代迄遡って見てみることにしよう。
江戸時代、我々の祖先は、武士は儒教思想、庶民は神道、仏教、儒教の混淆した教
えを、それぞれ思想支柱としていたを考えられる。
武士の教養は、「小学」に始まり、「近思録」、「四書五教」へと進んだと言わ
れ、人間の「徳」を基本とし、「才」をその末と考えることを徹底して身につけるよう鍛
練された。たとえば、「四書五教」は武士の基礎教養として身につけているのが当
然、と考えられていたようだが、その「四書」の中の「大学」に次の文言がある。
「格物致知、誠意正心、修身斉家、治国平天下」と。これは、憶えやすくするため
に、日本人が簡略化したもので、物を詳しく調べることによって知識を得、知識を得
ることによって意を誠にし、意を誠にすることによって心を正し、心を正しくするこ
とによって身を修め、身を修めることによって家を斉(調)え、家を斉えることによ
って国を治め、国を治めることによって世界を平和に導く、という。短い文章だが、
一個人のありようから、国家の成り立ちのみならず、世界平和迄言及している文言で
ある。このような文言は、世界広しと言えども、他に類を見ないもので、この文言の
中からだけでも、次のタブーが武士には課されていた、と考えられる。
「国を治めえない者は、斉家以下のことが不十分だからである。家を調ええない者
は修身以下が不十分だからである。身が修まらない者は心正しからざるからである。
心が正しくない者は意が誠ではないからである。意が誠でない者は知識が不十分だか
らである。知識が不十分な者は物事の研究を十分していないからである。よって、物
事の研究を十分為し、そこから知識を得、知識を得ることによって意を誠にし……」
となる。
武士の「儒教」に対して、庶民の思想支柱は、神道、仏教、儒教の混淆物であった
ようである。その中でも町人の「いき」というのはおもしろい。
九鬼周造の「いきの構造」によれば、「いき」とは、仏教的な「諦観」と武士的な
「はり」と庶民的な「艶」とからなる、と云う。江戸の職人、町火消、芸者などに見ら
れた「いき」な生き方(行き方)は、明治以降にも色濃く庶民感情に残る。
そこから来るタブーは、無粋なこと、現代の言葉で言えば、「ダサイ」ことを忌み
嫌うという風潮で、たとえ金持ちであろうと、ダサければ嫌われる、という恐れを抱
かねばならないことにあった。
江戸末期、これらのタブーに大きな転換期が訪れる。嘉永6年(1853年)、浦
賀に黒船が来航することを機に、日本社会のタブーは大きく揺らぎ、崩壊の道を辿り
始める。
黒船のショックは、政治をも大きく変革し、時代は江戸から明治に移る。いわゆる
「明治維新」である。維新と言われたごとく、すべてのものを旧来のものから新しく
する、という意図が含まれていると同時に、今までのものは古い、と排除されること
にも繋がる。「文明開化」とはそれを最も表現している言葉である。
明治政府が眼目としたのは、西洋列強に呑み込まれぬ「国造り」であり、そのため
に「殖産興業」と「富国強兵」を実現するため、西洋の知識・技術の導入が急がれ、
「舶来」信仰が生まれるが、他方、西洋の自由・平等思想が流入することを防ぐため
の制度としてピラミッド型の「天皇制」社会と忠君愛国の教育が実施された。又、エ
リートたちの間でも、「和魂漢才」をもじった「和魂洋才」が唱えられ、知識と技術
を導入しはするが、魂までは売渡さぬ、という姿勢が崩れなかった。しかし、しだい
に魂の鍛練はおろそかにされるようになっていった。
日清、日露の両戦争に勝利をおさめることで、日本は西洋列強への強迫観念から解
放されるが、同時に、それは明治維新の、日本を西洋の手からなんとか守ろうという
緊張感と、新しい社会を建設しようとする清新さを喪失する。それが大正デモクラシ
ーとデカダンの形で現われてくる。
昭和に入り、政・財界の腐敗と世の乱れに対し、反動として昭和維新と称する右傾
化の風潮が胎頭、昭和7年5月15日、五・一五事件、昭和11年2月26日、二・
二六事件、と青年将校らが反乱を起し、その後、日本は急速に軍国主義へと傾斜して
ゆく。
昭和20年、日本は明治以来懸命に築いてきた工業社会と軍備を、すべて灰にして
しまう。
明治から第二次大戦迄は「和魂洋才」と言われ、江戸期の精神的鍛練のシステム
である儒教もまだ利用されていたが、敗戦と同時にそれも喪失する。精神的混乱は敗
戦後、天皇の人間宣言、日本国憲法公布の中で、国民が約10年続いた軍国主義の批
判を開始すると同時に、急速に左傾化することによってもたらされる。軍国主義批判
と左傾化は、戦前の体制のみならず、日本文化も思想も伝統もすべて否定する方向に
突走らせる。それは人々が、戦前の軍国主義への反感から、体制も、その思想もすべ
て誤りだと否定し去ることを意味し、昭和天皇の‘人間宣言’によって、より徹底し
たものになる。
「和魂洋才」から和魂が消え、魂を形成する鍛練のシステムも消える。その結果、
戦後の日本は、「復興」と称して、物質的ないしは経済的なもののみを追うことにな
る。効率主義と拝金主義と享楽主義はそこから出てきた帰結である。これらの中にタ
ブーは存在しないし、少々手段や方法が悪かろうと、結果さえ出れば、良いという風
潮がはびこることにもなる。戦後の日本は、「高度産業社会(経済大国・富国)」を
実現しえたが、人間としての魂を見失しなったのである。
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