【洋務運動失敗の理由】


  ◆洋務運動とは?◆
(1)場所−清朝の中国
(2)時期−1860年代〜90年代
(3)内容・目的−本格的に開国して西洋文化を摂取し、
    富国強兵・経済再建をはかる
(4)原因−欧米列強の侵略と太平天国の乱への対応
(5)担当者−漢人高級官僚たち
    曾国藩・李鴻章・左宗棠・張之洞など
(6)結果−失敗

 ちょうど日本で、討幕運動が展開され、
明治維新となり、
明治藩閥政府によって
富国強兵・殖産興業が推進された時期にダブります。
 中国での洋務運動もまた、
富国強兵を目的としたのですが、
日本が成功したのに対し、
中国はそれに失敗したと評価されています。

 ★どうして失敗と評価されるのでしょうか?

  ◆洋務運動が失敗と評価される理由◆
 一番の根拠は、日清戦争に敗北したことです。
 ほぼ同じ頃、ともに開国し、
富国強兵を目指したのですが、
その両者が朝鮮をめぐって戦った結果、
日本が勝った・・・・。
だから、富国強兵に日本は成功し、
中国は失敗した、と言われているのです。
−わかりやすい話です。

 ★では、どうして失敗したのでしょうか?

  ◆洋務運動失敗の原因◆
 山川出版・詳説世界史には
これについて明確な記述がありませんので、
『アジア歴史事典』(平凡社)を見てみましょう。

 ▼その理念が「中体西用」という折衷論であり、
  しかも妥協を強いられた。
 ▼国家的な取り組みではなかった。
 ▼官僚的な非能率と浪費。
 ▼買弁性と反人民性。
 ▼列強の干渉と操縦。
以上が洋務運動失敗の要因のようです。

 ★まず、「中体西用」がどうして失敗の原因となるのか?
  ・・・です。

  ◆「中体西用」とは何か?◆
 この語句の意味そのものは、
山川出版・詳説世界史の欄外に注記されているとおり、
「中国の儒学に基づく制度や伝統を守りつつ、
西洋の科学や技術を採用すること」
で いいでしょう。
日本で言えば“和魂洋才”かな−−。
 でも、意味は分かっても、
失敗の原因となった理由は分かりませんね。

「西洋は火砲・軍艦では中国にまさるが、
政治・社会の制度では遠く中国に及ばぬ。
夷狄の長所を採って中国の短所を補えば
自強は達成できる」。
 これは当時の「中体西用」論の一つです。
 簡単に言えば、
中国は今まで通りでよい。
ただ、西洋の技術にもなかなかのものがあるから
それだけを利用すればよい、というモノです。

 当時日本は、
国を挙げて西洋化と富国強兵に邁進しました。
“富国強兵”“文明開化”のお囃子の下に、
廃藩置県を断行し、武士を大量リストラ、
四民平等を基盤とする軍制の改革、
近代兵器の購入や官営工場の建設、
そして鉄道や電信電話を導入する一方で、
富国強兵とさほど関係ないような、
ヘアスタイルや服装、食生活まで変えたのです。
 あまりに急激な西洋化だったので、
“和魂洋才”などと
負け惜しみが出たのでしょう。
 他方、中国は中途半端な「中体西用」・・・。
日本との比較から考えると、
この中途半端が失敗の一因と思われます。

 ★中国はどうして中途半端だったのか?

  ◆中途半端な改革しかできなかった理由◆
●まず、考えられる理由は
【中華思想】です。
 この思想は、
中国が世界の中心であり、
一時的に夷狄=外国に蹂躙されることはあっても、
しかし必ず最後には夷狄を併呑し、
一層輝くのだ、
という、一種の信仰です。
  ▼例えば、
明末の徐光啓はマテオ・リッチと協力して
ユークリッドの『幾何原本』の漢訳を行いました。
ところでこの漢訳を出すに当たって、
徐光啓はどんな役割を持ったか、というと
リッチが中国語に訳した文章を修正するだけでした。
何故かというと、
徐光啓達は外国語を学ばなかったからです。
リッチの方が中国語を勉強してくれたから
その必要がなかったのです。
 これに比べ、
江戸時代に『解体新書』を出した杉田玄白達は、
オランダ語から勉強し、
苦労してこれを翻訳したのです。
外国人は日本語を学んでくれなかったから
仕方なかったのです。
 ここに【中華思想】が感じられます。
 ▼また例えば、
アロー戦争後、外務省に当たる総理衙門を設けました。
でもこれは、臨時の役所であって
いずれ廃止される予定だったのです。
 「外国がうるさく言うからとりあえず作ろう。
でも、いずれ奴らに一泡吹かせてやる。
その時には中国の朝貢国待遇にしてやるから、
理藩院で事足りるだろう・・・・」
と考えていたようなのです。
 まさに【中華思想】ですね。
 この思想が、清末の頃には中国人を
《あかんたれのぼんぼん》にしちゃったわけです。
 こうしてみると、【神国日本】などという信仰を
早めに捨てて良かったですね。
 森首相も、アウグスティヌスじゃあるまいし、
日本を、「神の国」などとアホな事を言わず、
真面目に仕事をしてほしいものです・・・。
  ▼さらに例えば、
ペリーが蒸気船で日本人の度肝を抜いた3年後、
その日本人が、佐賀藩や薩摩藩、そして宇和島藩で、
まったく外国人の援助を受けないで
蒸気エンジンの船を造ったり、
また明治政府が、学制を発布し、
小学校教育から全国民を向上させようとしたのに対し、
外国語学校は作ったものの、
外国の科学や技術の翻訳者養成のためだけであったり、
陸軍や海軍の士官学校を作っても、
国民大衆の教育機関はまったく考慮されなかった点にも、
そして、軍事教育から産業技術まで、
完全に外国人に依存し、
自前の人材養成は看板倒れになった点にも
小手先の修正で何とかなるという
【中華思想】が窺えます。

 これは、
他球団のエースや主力バッターを札束でかき集め、
“永遠に不滅”の巨人軍を作るのに似ています。
 しかしそのため、
20勝10敗のロケットスタートが失敗したように、
中国も、列強の古手兵器・機械の大市場になって、
結局、国を売るような結果になったのです・・・。

 ●●二つ目の理由は、
清朝内部の頑固派と
妥協せねばならなかったことです。
 清朝の高官の中には、
西洋の文化・技術を頭から否定する頑固者が
いました。
  ▼彼らの考え方を一つ紹介します。
「外国船は闇に乗じて焼き討ちするのがよい。
兵士にたいまつを持たせ小道から出て船の中に投げ込ませる。
一隻燃え出せば数十隻に延焼するだろう。
 また、潜水が上手な漁夫を集め、
鑿(のみ)で船底に穴を開けさせ
沈没させるのがよい。
 外国人と戦うには夜がいい。
彼らは夜になると見えにくくなり、
その上、豚のようによく眠るから、
深夜に襲撃の声をあげれば、彼らはびっくりし慌てふためき、
闇の中で同士討ちをするだろう。
 また、戦場にたくさん落とし穴を作っておくのもよい。
彼らの両足は長く真っ直ぐなので
膝の所で曲げることが出来ない。
だから落とし穴はそんなに深くなくてよい。
 また彼らは乗馬が得意でないから、
戦争の時
縄で馬の足を引っかければすぐ落ちて捕虜になる」
(1860年アロー戦争で英仏軍が北京に迫ろうとした頃、
清朝の主戦論者の意見)

 こんなレベルの連中に、
西洋の技術が中国より優れていて
軍事力でもまさっていることを認めさせるのは
なかなか大変だったでしょう。
 でも、説得しないと
どんな意地悪をされるか分からないから
しかたないです。
   というわけで、洋務運動の推進者は
こんな頑固者の機嫌を取りながら、
西洋の文化・技術を取り込もうとしたわけです。
ですから、「中体西用」は、
彼らを宥めるリクツでもあったのです。
まただからこそ、
改革は、中途半端にならざるを得なかったのです。

 ●●●三つ目の理由は、
洋務派官僚自体が
中国より自分の利益を第一としていたことです。
 中国を本当に改革し、
植民地化をストップさせようという気はなく、
富国強兵の御旗の下、
清朝や列強に抵抗しないで
権力と利権を手に入れることしかなかったのです。
そしてだから、清朝の維持を心がけ、
反清活動を弾圧したのです。
 これを幕末の日本に喩えて言えば、
薩摩藩や長州藩がイギリスなどの援助を受けて
藩内で富国強兵を実施し、
幕藩体制を揺るがす民衆の世直し運動などを弾圧、
代わりに
老中職などの役職を手に入れようとするのに似ています。
もちろん実際の歴史は、これと逆でしたが・・・。

  ▼こんな話があります。
 *清仏戦争の時、南洋の福州海軍が撃破されたのに、
李鴻章が作り上げた北洋海軍は何の援助もせず、
兵力温存に腐心したそうです。
 *この李鴻章は、1880年
上海機器織布局を設立しますが、
設立後10年間、競合企業の設立を禁止します。
それでも良質安価な商品を生産するならともかく、
操業開始はやっと10年後で、
開始して3年後には火事で焼失してしまう有様。
いたずらに中国民族資本の発展を抑圧しただけなのです。
 *洋務派官僚の張之洞が
湖南の総督であった時。
湖南巡撫の陳なる者が、湖南内部の河川に
小汽船を航行させようとしたのですが、
張之洞が反対しました。
 理由は、
「これを認めると湖南にも外国人が続々やってくる」。
 そこで陳巡撫は問います。
「かりに禁止しても、いつまでも外国人の渡来を
抑えることはできないのではないでしょうか」
 その時、張之洞は次のように言ったのです。
「いずれはそうなるだろう。
でも我々が湖南の責任者である時に
わざわざやることはない。
湖南の総督・巡撫でなくなった時であれば
我々の責任は問われない」。
 *この張之洞が別な人物に問われました。
「(ドイツが膠州湾を占領したように)
列国はどんどん中国を分割している。
あなたはこの事態にどう対処するおつもりか?」
 これに対し、彼はしばらく黙して、
次のように言ったそうです−
「分割が行われたとしても、
まだ清朝は存続しているはずだ。
そして私は、
その朝廷の大臣に就くことができる」と。
 嗚呼!・・・・言葉がないですね。

 ●●●●四つ目の理由は、
清朝皇帝がアホだったことです。
李鴻章や張之洞のような連中が現れたのは、
彼らの利己主義に一因があるでしょうが、
平然と利己主義をやれる状況があったのもたしかです。

 いや、皇帝がアホというより、
時の実力者・西太后こそが張本人だ!
−という説もあるかもしれません。
 いずれにしろ、
最高権力を握った者の個性や判断力が
国全体を左右する、
国民はそれに無批判・無抵抗−−
そのシステムが問題なのでしょう。

 が、清朝はかつて、雍正帝のような、
模範的皇帝を演じようと心血を注いだ人物を
輩出しています。
 だから
システムだけの問題とも言い切れないのでは・・・