キリストの幕屋
代表的日本人キリスト者
新 渡 戸 稲 造
 
 太平洋の橋となった新渡戸稲造
新渡戸稲造 国を思い 世を憂うればこそ 何事も 忍ぶ心は 神は知るらん
 1862年(文久2年)、新渡戸稲造先生は、今の岩手県盛岡市に生まれました。そして9歳で上京し、13歳で東京英語学校に学びました。その後、札幌に農学校が設立されたのを聞いて、同じ学校で学んでいた内村鑑三らと共に第2期生として入学します。

 それは、W・S・クラーク博士が、札幌農学校の教え子らに、"Boys, be ambitious! "(青年よ、大志を抱け!)と言って、札幌を去ってまもないころです。クラーク博士の人格的、信仰的感化は1期生たちの胸に熱く燃えていました。

 新渡戸先生は、上級生にならってキリスト教の信仰に入りました。ところが2年生になると信仰に確信を失い、疑惑が湧いてきました。そんな苦悩のなかにあった夏休みの終わりのこと。夜、ひとり静かに祈っていると、急に天の光に包まれる体験をしました。すると魂の内側から喜びが満ち溢れてきて、回心しました。

「先生、私は太平洋の橋になりたいのです。」

 札幌農学校を卒業した新渡戸先生は、明治16年(1883年)、東京大学に入学するに際して、面接官に、そう大志を述べました。

「西洋の思想を日本に伝え、
   東洋の思想を西洋に伝える橋になる」

 これは美しい理想ですが、その実現となると多くの困難が伴いました。けれども、新渡戸先生はそれを、天から与えられた使命として、生涯を捧げました。

代表的著書・『武士道』

 新渡戸先生は、日本精神を世界に紹介するために、『武士道(Bushido)』という本を、英語で書きました。

 「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるこの本を通して、当時、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを、世界の人々に紹介したのです。その本はやがて、ドイツ語、フランス語、ロシア語など、多くの国語に訳されました。そして、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡りました。

 日本でも、『武士道』が邦訳されて発売されるや、たちまちにしてベスト・セラーになりました。それは、明治維新以後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからです。

 近ごろ、「私は日本人であるよりも国際人でありたい」という声を聞きます。けれども、真の国際人となるには、日本人として、民族の歴史と伝統を身に体し、日本語をよく学ぶことが必要です。たとえ外国語を上手に話せても、日本人としてのアイデンティティーを抹殺したのでは、国際社会で良き働きはできません。

 新渡戸先生は、アメリカやドイツに留学し、幅広い学問を修め、当時の日本人としては珍しいほど、豊かな国際性を身につけていました。けれども、自らを育んだ祖国日本の歴史や文化に対する愛と誇りを失いませんでした。むしろ、海外の異なった文化との出合いを通して、日本を見直すときに、日本の良きものを洞察できたのです。

 1919年、新渡戸先生は、豊かな国際性と学識のゆえに、日本代表として国際連盟事務次長に推薦されました。ところを得た新渡戸先生は、そこで大活躍をされ、7年の任期を終えて辞任するときは、「国際連盟の輝く星」とまで賞賛されました

代表的著書・『武士道』

 新渡戸先生の晩年、世界は、彼が待ち望んでいた国際平和の実現とはほど遠いものとなりました。帝国主義の成長とともに、世界の強国は互いに疑惑と嫉妬の眼を向け合い、平和の思想と芸術を交換して喜び合った時代は過ぎ去りました

 そして、パシフィック・オーシャン(おおいなる平和の海)と呼ばれる太平洋にも波風がたちはじめました。新渡戸先生は、日米に渦巻く相互不信を取り除くために、最後の力をふりしぼって奔走します。けれども、新渡戸の真意は同胞の日本人からも、アメリカ人からも理解されることはありませんでした

 時の流れの中で、日本は国際連盟を脱退し、国民の中に、軍国思想が勢いを増してゆきます。そんな日本の前途を憂えて、新渡戸先生が、「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と語ったことが新聞に載りました。それによって軍部や右翼の激しい反発を買い、幾度か命の危険にさらされます。それまでの新渡戸先生を賞賛した声は、糾弾の叫びに変わり、多くの友人や弟子たちも去ってゆきました

 世の風評はどうあれ、昭和天皇は新渡戸先生を深く信頼なさり、幾度か宮中に呼ばれ、アメリカの情勢をお尋ねでした。新渡戸先生は天皇のご意向を受け、日米戦争を回避するためにアメリカに渡り、日本の立場を訴えます

 しかし、「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」と言って、アメリカの友人からも理解されず、冷たい反応を受けるばかりでした。そのころの心境を、新渡戸先生は歌に託して親しい友人に書き送っています

折らば折れ 折れし梅の枝 折れてこそ 花に色香を いとど添ふらん

 翌年(1933年)、新渡戸先生は、カナダ・バンフの太平洋会議に出席します。帰路、病に倒れ、バンクーバー市の近くのビクトリアにおいて、愛妻メアリーに看取られつつ、天に帰りました。71歳でした

 人々から誤解され、中傷されても、「太平洋の橋」としての使命に殉じた新渡戸稲造先生。そこに先駆者としての血の滲む労苦をみます。彼は、「橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれてはじめて架けられる」と言って、後代の私たちに夢を託しました


 

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