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高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習─ 10(2002)
        J. Higher Education and Lifelong Learning 10(2002)
内村鑑三と新渡戸稲造
*)
連絡先: 060-8589 札幌市北区北 9 条西 9 丁目 北海道大学大学院農学研究科
**)
Correspondence: Graduate School of Agriculture, Hokkaido University, Sapporo 060-8589, JAPAN
Abstract
─ The modernization of Japan was based on materialism and technology. In Sapporo Agri-
cultural School, however, it could provide democracy, internationalism and science through Protes-
tantism as the the spirit of modernization. There were two contributors from here through religion and
education. Kanzo UCHIMURA found the value of Japanese “bushido” to be equivalent to Western
traditional religion. He thought that absolute peace based on the Bible and policy of minority power
would bring real peace and prosperity. On the other hand, Inazo NITOBE who was a writer of
"BUSHIDO", found there was something common in Japanese traditional morals and Protestantism
and left a great mark through education and international activities. Both of them had to struggle
greatly for peace because it was the time that led to the "Dark Showa era" with the building up of
empire, control of national thought, and increased military political power. But they did not give up
and showed their courage in their struggle against that world. Although they have long passed away,
their ideas are still alive, and embody a universal truth. Some people who learned and followed them
also contributed to peace and democracy after the war. One of the followers said, “Who is the power to
revive Japan?...I hope you must be the one with the consciousness of the followers of two greatest
figures.”
(Received on February 6, 2002)
太 田 原 高 昭
*
北海道大学大学院農学研究科
Kanzo Uchimura and Inazo Nitobe
Takaaki Ohtahara
**
Graduate School of Agriculture, Hokkaido University
1. 日本の近代化と札幌農学校
1.1 皮相上すべりの近代化
 札幌農学校の大先輩というと内村鑑三と新渡戸稲
造の名前がすぐ出てきます。もっとも入学したての
皆さんはどうでしょうか。知らなかったという人で
も5千円札の新渡戸稲造の顔は知っているでしょう
からお札の話から始めましょう。
 現在使われている紙幣は1万円札が福沢諭吉,5
千円札が新渡戸稲造,千円札が夏目漱石ですね。この
3人の共通点は何でしょう。紙幣の人物を選ぶ時は
その時々にテーマがあって,以前の紙幣は聖徳太子,
伊藤博文,板垣退助で,このテーマは「憲法」でした。
福沢,新渡戸,漱石をつなぐキーワードは「近代化」

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です。明治期の日本にあって,日本の近代化はどうあ
るぺきかをそれぞれの立場から真剣に考えたのがこ
の 3 人なのです。
 この3人に共通するのは,日本の近代化は物質的,
技術的な「文明開化」が先行して,それを支える人間
の精神が旧態依然としていた,それを当時の人々は
和魂洋才」といって正当化したのですが,それでは
本当の近代化は出来ないと考えたことです。漱石は
明治 44 年の有名な講演で「現代日本の開化は皮相上
滑りの開化である」と指摘し,真の開化はもっと内発
的なものでなければならないと言っています。福沢
が『学問のすすめ』をはじめとする多くの啓蒙書を書
いたのも同じ気持ちからです。
 ですからこの人達は,近代化を支えるより根源的
な「近代精神」を問題にしていたと言ってよいでしょ
う。そしてこの問題をさらに徹底して追及したのが
新渡戸稲造なのです。新渡戸は札幌農学校,京都大
学,東京大学の教授を歴任した学者,教育者として,
また国際連盟の事務次長を務めた国際人として活躍
しましたが,こうした経歴を通して彼が一貫して日
本国民に訴え続けたテーマが「近代精神」だったので
す。そして彼の力強い同伴者が,札幌農学校の同期生
で親友の内村鑑三でした。
1.2 もう一つの明治の青春
 内村と新渡戸は,明治9年(1876 年)に開学した
札幌農学校に第二期生として入学し,昭和前期まで
活動しましたが,その青春時代であり思想形成期と
なったのは明治時代です。この時代は,司馬遼太郎の
いう「この国のかたち」が形成された時代であり,彼
らは日本国という若い国家が形成される過程に同時
代人として立ち会ってきたのです。
 この明治時代について皆さんはどのようなイメー
ジをお持ちでしょうか。かなり多数の日本人が抱い
ている明治のイメージは,新生日本が世界の強国と
して成長していく明るくたくましい時代というもの
です。このイメージを定着させたのが司馬遼太郎の
『坂の上の雲』かもしれません。皆さんは受験勉強で
忙しくて読んではいないと思いますが,この小説は
日露戦争で日本を勝利に導いた軍人秋山兄弟を主人
公にして,国の目標と個人の目標が一致し,誰もが坂
の上に白く輝く雲を目指して努力し得た希望の時代,
いわばこの国の青春時代として明治期を描いていま
す。
 亡くなられた司馬氏に叱られるかもしれませんが,
いわゆる「司馬史観」の近代日本認識は,明治期の健
康な時代と人がだんだんおかしくなって昭和の破滅
に至ると要約してよいように思います。そしてそう
した観点からの徹底した軍国主義批判が司馬氏の大
きな魅力になっています。
「明るい明治と暗い昭和」
このイメージが近代日本像として一応の市民権を得
ているからこそ,司馬遼太郎の文学は「国民文学」と
言われるのでしょう。
 私はかなりの司馬ファンを自認していますが,こ
の歴史認識には賛成しかねます。昭和の前半が暗い
時代であったことは確かですが,明治はそんなに明
るい時代だったのでしょうか。昭和の破滅に至る道
は明治期にすでに準備されていたのではないでしょ
うか。それに疑問をもたずに坂の上の雲を目指して
歩いた人達が多数派だったにせよ,
和魂洋才」の危
うさを見抜き,軍国主義をその初発から批判して,日
本の真の近代化のために闘った人々がいた。私が皆
さんに伝えたいのは,そうした「もう一つの明治の青
春」なのです。
1.3 近代精神の源流としての札幌農学校
 元東大総長の矢内原忠雄は岩波新書のベストセ
ラー『余の尊教する人物』の中で次のように述べてい
ます。「内村鑑三と新渡戸稲造とは私の二人の恩師
で,内村先生よりは神を,新波戸先生よりは人を学び
ました。両先生は明治初期の札幌農学校で同級の親
友でありましたから,その意味では私も札幌の子で
あります。
」この二人が奇跡のように出会って同級生
となった札幌農学校とはどのような学校だったので
しょうか。
 初期の札幌農学校はこの二人の外にも日本の近代
化にかかわった優れた人物を輩出していますが,こ
の学校は,学士号を授与出来る大学としては東京大
学より1年早く,わが国初の大学でした。明治のごく
早い時期に,しかも蝦夷地といわれた北海道という
僻遠の地に,それまでの日本的伝統から解放された
近代精神が育っていったのです。言うまでもなくそ
れが初代教頭のクラーク博士に由来することは皆さ
んもご存じでしょう。
 ウイリアム・S・クラークはアメリカの南北戦争を
戦った北軍大佐,マサチュセッツ農科大学の学長で
あり,熱心なプロテスタンティズムのキリスト者で
した。いろいろないきさつがありましたが,明治政府

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は,結果としてこうした人物に学生の知育,徳育,体
育のすべてを委ねたのであります。これが当時の日
本においていかに特別のことであったかは,キリス
ト教がこの時点ではまだ事実上国禁の宗教であった
こと一つとっても分かるでしょう。
 南北戦争は奴隷制を打破した民主主義の勝利であ
りました。マサチュセッツ農科大学はアメリカでも
最先端の学府であり,札幌ではそのカリキュラムそ
のままが英語で学生に講義されました。クラークは
その全人格をもって学生を教育し,学生たちは彼を
通じて民主主義,国際主義,科学精神,そしてキリス
ト教を砂地の水のように吸い込みました。そしてこ
れらの諸要素こそが西欧近代精神の骨格をなすもの
であったのです。内村と新渡戸はこのような豊饒な
土壌に咲いた大輪の花でありました。
 ここで付け加えておきたいのは,キリスト教と資
本主義の関係です。経済の資本主義化は「近代化」の
重要な要素ですが,問題はここでもそれを支える人
間の精神です。詳しくはマックス・ウェーバーという
高名な社会学者の『プロテスタンティズムの倫理と
資本主義の精神』という本をそのうちぜひ読んでほ
しいのですが,ここでは札幌農学校にもたらされた
プロテスタンティズムのキリスト教を単なる宗教問
題としてだけ考えてはならないということを言って
おきたいと思います。
2. 宗教者・内村鑑三
2.1 日本初の水産科学者
 先に触れた矢内原先生は『余の尊敬する人物』で新
渡戸を,
『続・余の尊敬する人物』で内村を取り上げ
ていますが,ここでも矢内原の筆を借りて内村を紹
介しておきましょう。
「明治 14 年 7 月,先生は札幌農
学校を卒業しました。在学中の成績は最優秀であっ
て,製図と兵式体操を除くほかはほとんど各学科に
わたって最高点を取らないものはなかったといわれ
ます。先生の選んだ専攻は水産学でありまして,卒業
式演説には『漁業もまた学術の一なり』との題下に万
丈の気炎を吐き,水産学を一つの科学として発達す
べき必要を説きました。
 宗教者・内村鑑三と題したからには,武士の子とし
て育った内村がいかにしてキリスト教の道に入って
いったかを述べるべきでしょうが,それは私のよく
するところではありません。岩波文庫に内村の青春
記というべき『余は如何にして基督教徒となりし乎』
があることを紹介するにとどめて,彼が日本初の水
産科学者として社会に出て行ったところから話を始
めます。
 北海道開拓使御用係や農商務省水産課において専
ら水産調査に従事した時代の業績は,あわぴ,にしん
についての初めての科学的資源調査報告や,これも
日本初の『日本産魚類目録』として残されています。
北大植物園の博物館に彼の製作になるあわびの発生
を示す見事な標本が展示されていますから,ぜひ見
ていただきたいのですが,北海道大学水産学部の沿
革をたどるうえでも水産科学者内村の存在は重要で
す。
 また宗教者内村を考えるについても,彼が自然科
学者であったことは重要なカギになると思います。
あわぴがその成育のどの段階で卵子を成熟させるか
を突き止めた有名な研究で,彼は「顕微鏡下に神を見
た」と書いています。宗教を科学と対立させるような
見地とは反対に,内村のキリスト教は,科学的研究が
次々と明らかにする自然の驚異の中に神の存在と意
志を確認するものであったのです。現代においても,
たとえば宇宙飛行士が,その宇宙体験によって神の
存在を確信するということがあるようですが,内村
における宗教と科学の統一はこういう境地とよく似
ているように思います。
2.2 アメリカ留学と「二つの J」
 また矢内原からの引用ですが,
「もしも内村鑑三が
生涯の仕事として水産学を選んだとしても,彼はそ
の方面で優に一大家を成したに違いありません。し
かし神は彼をば『人を漁る者』として用い給うたので
あります。
」内村は漁業者と付き合ううちに,彼らの
貧困が資源の過小や技術的未熟だけでなく,商人の
買い叩きや飲酒,賭博などの行為,すなわち「心の問
題」により多く胚胎していることを知りました。内村
の宗教者としての情熱が彼の中に「北海の漁師で終
わるか,ガリラヤの漁師となるか」の葛藤をもたらし
ます。
 最初の不幸な結婚の破綻もあって,内村がアメリ
カ留学を決行するのは明治 17 年(1884 年)のことで
す。この留学が彼の内面に与えた影響は決定的であ
りますが,その内容については『余は如何にして…』
を参考にして下さい。とにかくここで内村はキリス
ト教への生涯不動の信仰を確立したのです。また時

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を同じくして波米した新渡戸や宮部金吾,広井勇な
ど同期の秀才たちとの交友も密接であり,その中か
ら「札幌を北のアテネにしよう」という壮大なビジョ
ンも生まれるのです。
 しかしながら憧れのキリスト教国アメリカは決し
て理想国ではありませんでした。そこには素晴らし
いキリスト教徒と共に,日本以上の犯罪,人種差別,
人間不信が同居していました。アマースト大学で神
学生となった内村は,伝導が職業となるときの人間
の奢りや堕落とも直面することになります。明治 21
(1888)年にアマーストを退学して帰国した内村は
「二つの J」という独自の境地に達していました。
「ふたつの J」とは Jesus の J と Japan の J です。これ
は簡便に「日本的キリスト教」とか「キリスト教とナ
ショナリズムの統一」と説明されることがあります
が,とてもそうした日本語ではその意を伝えること
は出来ません。内村がその生涯をかけて実践した内
容からすれば,外国の教会と宣教師に無批判に従い
その財政援助に甘んずるキリスト教でなく,日本の
精神的伝統を重んじ内発的にイエスに向きあう自主
独立のキリスト教とでも言えばいいのでしょうか,
とにかく内村の無教会主義キリスト教の思想的基盤
がすでに出来上がっていたのです。
2.3 人を神とするなかれ−不敬事件
 帰国した内村にとって,祖国の現実は,その確固た
る信仰を貫くにはあまりに厳しいものでした。しか
しその中にあって彼はその信仰に忠実に生きていく
のですから,当然のように摩擦が生じます。彼の無教
会主義に対しては教会も宣教師も激しい非難を浴び
せました。彼が帰国後最初に赴任した新潟のミッ
ションスクール北越学館では,宣教師と激しく対立
してわずか4ケ月で辞任しています。そしてこの後日
本を震撼させた大事件が起きるのです。
 内村は明治 23 年,第一高等中学校(後の一高)に
招かれ,歴史を教えると共に舎監を務めます。この年
の 10 月に教育勅語の発布があり,全国の学校でその
奉戴式が行われました。第一中高では翌年の1月にお
こなわれたのですが,この時内村は勅語に対して最
敬礼をしませんでした。勅語に対する最敬礼は,天皇
が神であり勅語は神の言葉であることを認める儀式
ですから,キリスト者内村がこれに同意できなかっ
たのは当然であります。
 これがいわゆる不敬事件として大問題となり,内
村は不敬漢,国賊の汚名を着せられ,文字どおり日本
中から袋たたきにされました。後に内村の高弟と
なったある人は,最初に彼の名を知ったのは小学校
の教師が黒板に「国賊内村」と大書した時だったと書
いています。彼の家には連日多数の暴漢が押し寄せ,
2度目の妻はその心労で病死しました。内村自身も
心身に打撃を受け,生死の間をさまよいます。日本国
民はこの時,その民族的欠陥ともいうべき付和雷同
型の集団熱狂を以て内村一人に襲いかかったのでし
た。
 内村は,魂の故郷である札幌に帰って旧友たちに
慰められた後,熊本や京都に潜伏するのですが,彼の
偉さは,生涯で最も苦しかったこの時期に『余は如何
にして基督教徒となりし乎』をはじめ『基督信徒のな
ぐさめ』
『求安録』などの代表作を書き残しているこ
とです。このようにして内村はますますその信仰を
深め,不死鳥のように蘇って日本社会への反撃を開
始するまで臥薪嘗胆の日々を送っていたのです。
 不敬事件は,近代日本が絶対主義的天皇制を確立
して国民思想を統制し,軍事大国として世界に進出
しようとした時期に起きた象徴的出来事であります。
明治政府によって「暗い昭和」につながる重大な布石
が打たれようとした瞬間に,最大限の勇気をもって
その前にたちはだかった日本人が居たということを,
今日の私達は世界に誇ってよいでしょう。そしてそ
れは内村の「人を神にしてはならない」という強い信
念に発するものであり,やがて第2次大戦後の昭和
天皇の「人間宣言」によってその正しさが実証される
のです。
2.4 絶対平和主義と「小国主義」
 雌伏の時期を過ぎて東京に戻った内村は,札幌農
学校の1期生黒岩四方之進の推薦を得て,その弟で
ある黒岩涙香が主催する当時最大の新聞「万朝報」に
招かれて,時事問題に快刀乱麻の筆をふるいます。さ
らにライフワークとなった雑誌『聖書の研究』を創刊
して無教会主義キリスト教に多くの信徒を集めます。
国賊として有名人になった内村は,一転して正義の
使徒として絶大な人気を得,多くの青年がその言動
に酔ったと言われます。
 田中正造らと共に古河財閥を向こうに回して闘っ
たわが国最初の公害闘争「足尾鉱毒事件」をはじめ,
紹介すべきことは多いのですがもはや時間がありま
せん。ここでは彼が残した多くの業績のうち後世へ

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の最大遺産というべき絶対平和主義と小国主義の思
想について簡単に触れておきましょう。
 戦争に対する内村の考えは日清戦争ではやや肯定
的でしたが日露戦争に対しては非戦論を貫き,戦勝
に酔う国民に対して峻烈な批判を加え続けました。
彼の非戦論は様々な論拠がありますが,帰するとこ
ろ「汝殺すなかれ」という聖書の立場を原則的に貫い
た絶対平和主義であり,それだけに反論を許さない
明快さがあります。ますます強まる軍国主義に対す
る彼の闘いは昭和5年の死に至るまで続いたのです。
 小国主義は,この絶対平和主義と密接にかかわる
外交政策論です。内村は明治 44 年に「デンマルク国
の話」という有名な講演を行っていますが,小国デン
マークの歴史に託して大国主義の誤りを批判し,領
土的野望を断ち切った小国主義こそが平和と繁栄を
生み出すことを分かり易く説いています。平和主義
と小国主義の思想はその後の歴史に圧し潰されてい
くのですが,やがて第2次大戦後の日本の国づくり
の基本的指針として復活するのです。あたかも主イ
エスの復活のように…。
3. 教育者・新渡戸稲造
3.1 我れ太平洋の橋とならん
 札幌農学校2期生の主席を通した内村にくらぺる
と,新渡戸稲造の席次はパッとしなかったようです。
それは彼が理数系が不得意だったからで,やはり理
数に弱い私などは大変親近感を感じておりますがそ
の後が違います。新渡戸の英語力は抜群で,語学では
トップを譲ったことがなく,教師も一目置く存在で
した。現在も彼の学生時代の見事な英文ノートが
残っています。新渡戸はこの英語力を生かしてク
ラーク先生が持ち込んだ図書館の文献を卒業までに
ほとんど読了したそうです。資質としては典型的な
文系なのでしょう。
 その新渡戸が選んだ専門が農業経済学で,卒業演
説は「Principle and Importance of Agriculture」でした。
農業に関する古今の文献を読み漁った彼は,卒業後
さらに勉強を重ねるために東京大学に入学します。
この時の面接試験において将来の希望を聞かれた新
渡戸が「太平洋の橋になりたい」と答えたことは有名
です。しかし開学したての東京大学の学問水準は彼
の期待を完全に裏切るもので,新渡戸はわずか1年で
退学し,アメリカに渡ってジョンス・ホプキンス大学
に入り直します。
 この大学では,後に長く北大学長を務めた1期生
の佐藤昌介と一緒の部屋で生活したのですが,一足
早く帰国して母校の教授となった佐藤から,新渡戸
を母校の助教に任じるから,あらためて国費を以て
ドイツに留学するようにとの通知が届きました。ド
イツではボン大学,ベルリン大学などで当時第一線
の農業経済学,農政学を研究し,明治 24(1891)年
に帰国して母校に着任しました。
 アメリカでの新渡戸は,学友から「グレート・ニト
ベ」と呼ばれるほど人格,学識ともに秀でておりまし
たが,ここで生涯を決定づける二つの出来事があり
ました。一つはキリスト教のクエーカー派に入信し
たことで,学生時代からやや懐疑的であったかれの
信仰はこれにより確固たるものとなりました。もう
一つはクエーカー教徒の同志であるメリー・エルキ
ントンと婚約し,ドイツで結婚したことです。まさに
国際結婚のはしりといえるもので,メリー夫人は生
涯を通じて国際人新渡戸のよきパートナーとなった
のです。
3.2 札幌農学校の「新渡戸時代」
 新渡戸が赴任した当時の札幌農学校は,政府から
不要論,廃校論が出されるなど存亡の危機に直面し
ていました。その高度に学問的な姿勢が性急な実用
主義の立場から批判されたのですが,明治政府は,札
幌農学校の存在そのものに,国の目指す方向と相入
れない危険なものを感じとっていたかもしれません。
新渡戸は,佐藤や宮部金吾,広井勇らの同僚と共にこ
の危機に立ち向かい,見事にこれを克服して母校を
一層の発展に導いたのです。
 教授に昇任した新渡戸は,札幌農学校を代表する
学者として教育研究に,学内行政に,また北海道開発
の様々な実際問題の指導に八面六臂の活躍をみせ,
札幌農学校の「新渡戸時代」と称される一時代を築き
上げました。学生には学問の伝授だけでなく,放課後
は自宅を開放して学生と語り合い,また農学校学芸
会を組織してひろく文学芸術に親しませるなど,全
人教育の立場で深い人格的影響を与えました。
 この時期の彼の業績を数え上げるには時間が無さ
すぎますが,どうしても落とせないのは「遠友夜学
校」でしょう。これは貧しくて教育を受ける機会のな
かった子供達のために作られた無料の学校で,メ
リー夫人が実家の遺産を生かして校舎を建て,新渡

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戸が学生と一緒に無報酬で教師を務めたものです。
日本における近代的ボランティアの元祖といっても
良いかも知れません。この学校は,新渡戸が札幌を
去った後も,代々の教師や学生に受け継がれて多く
の卒業生を出しており,札幌と北大が全国に誇って
よい事業であると言えましょう。
 この外にも,無教会主義キリスト教の総本山とも
いえる札幌独立キリスト教会を宮部金吾と共に支え
るなど,各方面にわたって超人的に活躍したのです
が,そのために健康を害し目がほとんど見えなくな
りました。療養のために札幌を離れたのが明治 30 年
ですから,わずか6年の母校教授でしたが,この短期
間に残した仕事は質量ともに驚くべきものでありま
す。この時は病が癒え次第札幌に戻る予定だったの
ですが,運命は彼をさらに次の舞台へと運んでいっ
たのでした。
3.3 第一高等学校の校風改革
 一時は重体に陥った新渡戸の健康は,群馬県の伊
香保温泉からアメリカに療養の地を移してのメリー
夫人の献身的な看護によってようやく回復に向かい
ました。内村と同じように新渡戸も伊香保で代表作
『農業本論』を執筆し,さらにアメリカでは名著『武
士道』を書き上げました。これは日本の伝統的モラル
としての武士道を豊かな学識と流麗な英文で紹介し
たもので,新興国日本への関心が高まっていた欧米
でたちまちベストセラーになりました。当時のアメ
リカ大統領セオドア・ルーズベルトもこれを愛読し,
周囲にも薦めていたそうです。この本は武士道とキ
リスト教倫理との接点を見いだして,後者による前
者の継承を示唆するなど,内村の「二つの J」と通じ
合うものがあるように思います。
 札幌に帰るつもりだった新渡戸は,国策によって
台湾総督府勤務を命じられました。日清戦争で獲得
した植民地台湾の経営のために,その中心産業であ
る糖業の基本方針を樹立しうる人物として彼に白羽
の矢が立ったのです。明治 36 年には台湾総督府兼務
のまま京都大学教授として植民学講座を担当し,明
治 39 年には東京大学教授との兼任で第一高等学校の
校長を命じられました。国際的な視野をもつ当代第
一級の人物として新渡戸への評価は高まる一方だっ
たのです。
 当時の一高は国家エリートの養成所として,イデ
オロギー的には国家主義の牙城であり,学生の気風
は「栄華のちまた低く見て」と寮歌にあるように,蛮
カラのエリート主義に凝り固まっていました。当時
こうした気風は「篭城主義」とよばれ,社会との接点
をもたないことがむしろ美風のように考えられてい
たようです。新渡戸校長の教育方針は,こうした学生
たちの精神的篭城を解き,学生間の友情,社会との交
流,そして国際間の友好という開かれた世界に彼ら
を導くことでありました。
 封建的思考から抜け切っていない学生たちに近代
精神を教えることは決して容易ではありませんでし
たが,新渡戸の名講義がまず彼らを魅了しました。教
室には前の時間から行列が出来,前の授業の終了と
共に学生は席を奪い合ったそうです。今の大学の授
業は後ろの席から埋まっていって前の席が空いてい
るのですが,新渡戸先生の授業は最前列から埋まっ
ていったようです。この辺のことは私たち現代の大
学教員の反省を込めて話しております。
 また彼は札幌時代と同じように学生との談話を好
み,わざわざそのための家を借り上げたくらいです
から,新渡戸イズムは次第に学生に浸透していきま
した。思想史的には大正デモクラシーヘの一つの準
備であったと言えるかもしれません。こうして彼は
「新渡戸の前に新渡戸なく,新渡戸の後に新渡戸な
し」と語り伝えられる名校長となったのです。校長を
辞した時,5,6百人の生徒の列が先生の自宅までつ
いていったということです。
3.4 ジュネーヴの星一国際連盟事務次長
 新渡戸はその後東京帝大で植民政策学の教授に専
念しますが,大正7年東京女子大が開校すると,東大
教授のままその初代学長に就任します。札幌では北
星女子校に協力しており,彼が女子教育に並々なら
ぬ熱意をもつ先覚者であったことを,とくに女子学
生の諸君には知っておいていただきたい。しかし時
代は彼を教育者の席にいつまでも置いてはくれませ
んでした。
 1919 年,第一次世界大戦の反省の下につくられた
国際連盟の事務次長のポストが日本に割り振られる
と,この任務を果せる国際人は新渡戸しかいないと
の理由で,彼はロンドンに派遣されることになった
のです。新渡戸が欧米諸国の視察の途中パリの日本
大使館に立ち寄ったところ,ちょうどそこで日本代
表の人選に悩んでいた西園寺公望らが彼を見て,
「あっ,ここに居た」と即決したという逸話が残って

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います。
 やがて国際連盟の事務局はジュネーヴに移されま
すが,新渡戸はその学識と人格,そして何よりも筋金
入りの国際友好の信念によって「連盟事務局の良心」
「ジュネーヴの星」とよばれるまでになりました。そ
の任期は予定をはるかに越える7年に及び,昭和2
(1927)年にようやく任を辞して帰国することが出来
ました。しかしこの頃から日本のアジアヘの侵略的
態度による国際的孤立が深まり,2年後の昭和4年
には満州事変が起こります。新渡戸は彼を国際連盟
に送り込んだ日本国から裏切られることになるので
す。
 ジュネーヴでの新渡戸は国際機関の幹部として模
範的な公正さを発揮しましたが,どちらかというと
アメリカ,ドイツ,フランス,ロシアという強国より
も弱小国を大事にしたと言われます。また激務の傍
ら知的協力委員会という組織を発案し,哲学者のベ
ルクソン,物理学者のキュリー夫人やアインシュタ
インなど当時の最高頭脳を集めて,今日のユネスコ
の土台となる貴重な仕事をも残しました。
3.5 日米不戦のための最後の闘い
 帰国と同時に新渡戸は貴族員議員に任じられ,昭
和4年には太平洋問題調査会理事長に就任します。
次第に高まる日米間の対立を科学的,客観的に分析
して日米和平の道を探ろうとするのが彼の意図であ
りました。しかし戦争に反対するマルクス主義者な
ど平和勢力ヘの弾圧が強まり,盟友内村もすでに没
しておりました。自由主義者,平和主義者としての新
渡戸にとってまことに厳しい時代が訪れていたので
す。
 昭和7年に四国の松山で講演したとき,彼が「日本
を滅ぼすのは共産党よりも軍閥だ」と発言したとし
て在郷軍人などが騒ぎ出した「松山事件」が起こりま
す。松山の人はのんびり俳句などひねっているとい
うイメージがあるのですが,日露戦争の英雄秋山兄
弟の出身地ということもあってかこの頃はなかなか
うるさかったようです。新渡戸は頑迷な日本人の説
得よりも,直接アメリカに渡って日米不戦を訴える
行動に出ます。
 彼がアメリカにおいて行った平和のための講演は,
昭和7年1年間だけで100回を越えました。すでにア
メリカ国民の対日感情は悪化の極に達しており,ま
た日本国家の行動そのものが新渡戸の話の説得力を
奪っていきました。こうした中で不戦を訴える新渡
戸の講演旅行は大変な精神的肉体的苦難を伴うもの
となりました。しかし「太平洋の橋」たらんとした新
渡戸にとって,これはどうしても成さねばならない
神聖な任務であったのです。
 昭和8(1933)年,カナダで開催された第5回太平
洋会議に日本代表団長として出席していた新渡戸は
激しい心痛で倒れ間もなく死去しました。この時 72
才,まさに悶死というべき最期でありました。新渡戸
の死によって最後の歯止めを外されたかのように日
本は破滅的戦争への道をひた走っていきます。しか
し彼は生前,口癖のように「蒔いた種はいつか芽を出
す」と語っていました。歴史はこれで終わったのでは
ないのです。
4. 「札幌の子」たちの戦後改革
4.1 戦後民主主義のオピニオンリーダー
 先に矢内原忠雄が内村,新渡戸の二人を師とし自
らを「札幌の子」と言ったことを紹介しました。矢内
原はこれを書いた時,東京帝大教授を追われて野に
ありましたが,敗戦により復帰して戦後二代目の東
大総長となります。その前任者南原繁も同じような
ことを述べています。また戦後最初の文部大臣前田
多聞,その後継者阿部能成,さらに,天野貞祐,森戸
辰雄と戦後歴代の文部大臣がすべて「札幌の子」だっ
たのです。
 この人達は東京帝大経済学部または法学部出身で
すから,新渡戸の直接の教え子なのですが,内村との
接点はどこにあったのでしょうか。先に触れたよう
に,新渡戸教授の家には多くの教え子が押しかけて
いたのですが,その中にはキリスト教に強い関心を
もつ者も少なくありませんでした。新渡戸は彼らに
「その勉強がしたいのなら私よりずっと偉いやつがい
る」と内村を紹介していたのでした。こうして新渡戸
→内村ルートを歩いた一群の人達が「柏会」
「白雨会」
などのグループをつくり,自分たちを「札幌の子」と
自認していたのです。
 彼らは,新渡戸の直接の後継者として植民政策学
講座の教授となった矢内原がそうであったように,
二人の師の亡き後それぞれの立場で軍国主義への抵
抗を続け,敗戦と共に戦後改革の先頭に立ち,戦後民
主主義のオピニオンリーダーとなっていったのです。
上に挙げた名前以外にも経済学者の大塚久雄,最高

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高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習─ 10(2002)
        J. Higher Education and Lifelong Learning 10(2002)
裁判所長官田中耕太郎などビッグネームにこと欠き
ません。彼らの活躍はまさに内村,新渡戸の思想,さ
らには札幌農学校の精神の力強い復活だったのです。
「札幌の子」は東大ルート以外からもたくさん生ま
れました。一例として後に総理大臣となった石橋湛
山を挙げておきましょう。石橋は早稲田出身ですが,
甲府中学時代の校長だった大島正健(農学校1期生
で『クラーク先生とその弟子たち』の著者)の強い影
響を受け,自ら「札幌の子」と称しました。戦前は気
骨のジャーナリストとして知られ「非戦論」
「小国主
義」など内村と驚くほど似た主張を展開しています。
昭和 31 年総理大臣となりますが,間もなく病気のた
めその席を岸信介に譲りました。石橋が健康であっ
たならば,その後の日本は今とはずいぶん異なった
形になっていたろうと言われています。
4.2 平和憲法と教育基本法
「札幌の子」たちが先頭に立って進めた戦後改革の
内容についてはここでくわしく述べる必要はないと
思いますが,その土台となる憲法,とくにその第9条
について繰り返し言われる「アメリカから押し付け
られた」という主張については,今までの文脈から一
言しておかなければなりません。
 皆さんはすでに気がついていると思いますが,戦
争放棄をうたった憲法9条の思想はまさに内村の絶
対平和主義の思想そのものであります。憲法の案文
をだれが書いたにせよ,ひろく国民に受け入れられ
る内容でなければそれは一国の憲法として定着する
ことは出来ません。すでに明治の時代から内村をは
じめとする先覚者たちによって穿たれた恒久平和の
水脈は,暗い戦争の時代にも伏流として岩盤の底を
流れ続け,国民の真の願いに支えられて時を得るや
表層に現れ,大河となって戦後社会にひろがったの
です。
 教育基本法は「日本国憲法の精神に則り,教育の目
的を明示して,新しい日本の教育の基本を確立する
ため(前文)
」すべて日本人の手によって構想され起
草されました。この法律の生みの親である教育刷新
委員会には委員長安倍能成,副委員長南原繁をはじ
め天野,森戸など「札幌の子」たち,他にも多くの新
渡戸の教え子が参画していたのです。この作業の責
任者であった当時の文部省学校教育局長日高第四郎
は「新渡戸稲造先生こそ教育基本法の育ての親で
あった」と述べています。
 教育基本法前文にあるように,憲法の平和と民主
主義の理念を実現するためには,国民の意識の改革
すなわち教育の力によらなければなりません。両者
はそうした強い内面的結合関係にあるのです。そし
てそれこそが内村と新渡戸が命懸けで訴えてきた理
念でありました。内村を苦しめた教育勅語は廃止さ
れ,天皇も神であることを自ら否定しました。彼らの
思想は戦後の日本に見事によみがえったのです。
4.3 北海道大学のレーゾンデートル
 しかし,もう一度言わなければなりませんが,歴史
はこれで終わったのではないのです。憲法と教育基
本法に象徴される戦後民主主義は,戦後社会にしっ
かりと定着しましたが,それを葬り去ろうとする動
きもまた執拗に続いています。再軍備と軍備増強,海
外派兵,繰り返される改憲論議,そして教育基本法の
見直し論も出てきました。戦後民主主義もまた漱石
が嘆いたような「皮相上すべり」に終わるのでしょう
か。
 決してそうではないと思います。歴史はいっペん
に変わるものではありません。法律や制度は劇的に
変化することがありますが,それを支える人間の精
神はやはり徐々に変わっていくものです。優れた先
輩たちがここまで築き上げてきた成果を,ただ与え
られたものとして受け取るのではなく,それを守り
発展させ,歴史をさらに前に進めていくのは現代に
生きている私たちの任務です。
 こうした現代的課題を考えるうえで,北海道大学
はやはり特別な位置にあると思います。それを確か
めるために,矢内原教授が敗戦の翌年北海道大学に
招かれて,直接北大生に呼びかけた講演のごく一部
を紹介しておきましょう。
「われわれが日本の国を再
び興すというならば,自分達はもう一度札幌農学校
創立当時に帰って,そこから再続発しなければなら
ない。
「日本を復興する力はどこから出て来ますか。
それがこの札幌の地から,この内村,新渡戸両先生の
後輩であると自覚する諸君の中から生まれてくるこ
とを私は衷心希望する次第であります。
 この呼びかけに皆さんの先輩である私たちの世代
がどれだけ答えてきたか,それを思うと忸怩たるも
のがあります。しかしこうした期待を受け縦ぎ語り
継ぎながら,私たちも若い皆さんと一緒に考えてい
きたいと申し上げて,この授業を終わりたいと思い
ます。ありがとうございました。

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高等教育ジャーナル─高等教育と生涯学習─ 10(2002)
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(この講義録は 2001 年 5 月 1 日と 8 日に行った授業の
メモに基づいて書かれたものであり,授業の内容と
一致していない所もあります。2002 年 1 月 10 日記)