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世界を動かす聖書の論理
宗教社会学者 鹿嶋春平太氏に聞く
(サインズ オブ ザ タイム 2001年1月号より)
田中 久吾
鹿嶋:はい、若い大学生諸君にマーケティングや広告の理論、つまり流通経済学を教えることを本業としでいます。その傍らで、聖書に関する本を書いたり、講義をしたりしています。
鹿嶋:これは私のうちに、時代の問題意識とでもいうべきものが、芽生え成長してきたためだとでもいいましょうか。
私は経済の学びを企業経営のレベルでなく、もう少し広く大きい国家・社会の視野からとらえ、世界や自分の祖国をよりよい社会にする方法を考え続けてきました。
一時人気があっ たマルクス経済学は、理論はどうであるにせよ世の中の人々をみんな幸せにしたい、特に貧しい人々を少なくしたいという強い願望があることは間違いないし、 ひしひしとその正義感が伝わってきていました。私自身は近代経済学の方でしたが、やはり悲しむ人や貧しい人をなくしたいという考えが基本にありました。研 究や教えるためにアメリカに滞在するうちに、どうも日本の国をよくするには経済学よりも更に人間の問題をやらなければアメリカのようにはならないことが多 いぞということを感じたのです。
鹿嶋:例えば、世の中の制度を改革するにしてもアメリカの社会はジャスティスすなわち正義が通る社会なのです。一方、日本はなかなか正義が通らないのですね。実行していく段階で骨抜きになったりすることがあったりして、どんどんおかしくなっていく。
ところがアメリ カは個人が正義で動くという意識が非常に強い国なのですね。正義のためには恐れない。それがどこから来でいるかというと、よくよく見ると聖書信仰から来で いるということがわかったのです。この国では世直しのためにも聖書がすごく効いている、聖書信仰が効いているぞと理解できたのです。聖書信仰がないとアメ リカのような改革はできないと感じたのです。もちろんアメリカにも貧富の差はあります。けれど弱者に対する政策は果敢に行います。しかし日本は放っておき ますからね。そういうことを見まして、いくら経済政策でいろいろなことを考え実行しても人間が変わらないことにはだめだぞ、ある程度しか効かないぞとわ かったのです。
それでは人間が 変わるためにはどうしたらいいのだろうかと。そうすると、それはやっぱり聖書信仰だということに気がついたのです。そこで聖書を調べたり、なぜ日本では広 まらなかったのかと、そういうことを考え始めたのですね。長年そうしているうちに、日本の国は近々精神面で、大きく梶を切る必要があることがだんだんと見 えてきたのです。日本の国民が聖書を、調べ、知るようになる、そういう方向に梶を切ることが不可欠である、と。
鹿嶋:あまりにもキリスト教・聖書基盤のものの考え方と、そうじやないものの考え方とは違いすぎますから、無理に聖書を勧めるというのではなくて、国際社会の中で聖書基盤の思想がわからないと問題が多いぞ、不必要な摩擦が生まれるぞ、ということを知ってもらいたいのです。
欧米の経済界の人々や事業家は大部分がクリスチャンですから、創造主・救い主がいて被造物があるという同じ存在論を持っていないと気を許してくれないことがあるのですね。
クリスチャンだ とわかるととたんに対応が変わるんです。お互いに共有しているものがあるという意識ですかね。そういうことがあるとわかって付き合うのならいいのですが、 わからないで付き合うのではどうしようもない。自分は信じていなくても、彼らはこういう思想だと、こういう行動様式だとわかれば衝突も避けられるでしょう し、対応の方法も出てくるでしょう。この人たちは将来歴史をこのようにしようと考えているのだとわかります。
そういうことが全然わからないで、いわば聖書音痴の状態で国際化が進んで、外国人と接触するようになったら、これはノイローゼになる。これではいけないぞというのが私の切実な現世的な問題意識なのです。
鹿嶋:そうで す。明治維新後、日本は西欧の制度を大々的に導入して国造りをしてきました。しかし、その取り入れ方に問題がありました。そもそも制度の内側には、それを 作った人々の意識の深いところに思い入れがある。それが言葉という外箱を与えられて理念になる。すなわち制度には必ず理念が存在するのですが、日本が西欧 やアメリカの制度を取り入れたとき、肝心の理念のところは東洋や日本の伝統的なもので代替して埋めようとした。
その代替にして除いてしまった西欧の制度の理念というのが実は聖書だったのです。聖書の理念なしに西欧の技術や制度を導入したのです。とりあえずは和魂洋才でいこうとしたのですね。
それは、一定期 間は成功しました。しかし、長期的には、機能しなくなっていく。基本的には無理なのですね、理念が違うのですから。制度の運用が、基本理念を外れていきが ちになります。そして我々の祖先には、そのことが見えなかった。聖書の理念を知った上で行えば見えたであろうことが見えなかった。だが、それを知ろうとし なかったのです。
この和魂洋才で 間に合わせた基本理念は時代と共に薄れて、やがてはリーダーシップが全くでたらめだと言われた昭和の時代が始まりました。きちんとした基本理念がない制度 や組織のまま日本国家は、後から見たら何であんな無謀なことを…と信じられない思いをさせられる一連の戦争の時代に突入していったのでした。
鹿嶋:こうして 敗戦。やがて西欧の制度導入の第二波が始まりました。これはアメリカの制度に集中した、戦前よりさらに広範囲なものでした。人民主権・民主制度・アメリカ 的教育制度、信教自由制度・労働民主化制度・独占禁止制度などがそれです。これらにもまた、これを形あるものにしていった理念があります。日常的には精神 といわれています。制度には、その形を内から盛り上げていった精神というものがあるのです。
ところが、戦後 の日本人はもはやそのことに関心を払わなくなってしまった。というより、むしろこれに徹底して目をつむるという姿勢で臨んだというべきかもしれません。精 神的なものをみな放棄した。精神的なものを偏重し、天皇は現人神であるという信仰を強制されたがゆえに戦争が起きたと反省したことから生じたのでした。
こうして、戦後 日本社会になされた制度の導入は無精神でもって外形をなぞるだけのものでした。これは、本来短命に終わるべきやりかたです。導入した世代はまだしも、次の 世代は制度の持つ精神を全く理解できない。そういう状態で、外枠だけをなぞるだけで、先輩からの教育でもって、制度を習得していきます。こうなればもう制 度と本来の精神とは時とともに乖離していくしかないのです。
東洋の日本がこ の国際化の時代に、世界の一員として伍していくためには、西欧の論理の基礎をなしている聖書についての学びが不可欠になりつつあります。西欧の制度の真の 善し悪しを確かめるためにも聖書を調べることは大切だと考えます。いま、日本は国民こぞって聖書を調べるという方向に梶を切る時です。本当は、これは、明 治維新時になされるべきことでした。それがなされたら、日本はもっと知的で、知恵の豊かな国になっていたことでしょう。これまでに発生してきた多くの悲劇 も避けられたと思うのです。
鹿嶋:日本の国 では宗教に対する基本的な姿勢が違うのです。日本の宗教的な意識の基礎は神道から来ていると思いますが、神道の考え方は、自然の神秘を見るとそれを無条件 で拝する。神秘なものに対する理論は何もない。理論を張らないのです。神秘なものに接した時、それは何だろうかと考え理解しないで、ただ拝してしまう。こ れが日本人の宗教の姿勢を形造ってている。それは仏教でも同じになっている。お経の意味がわからなくても一時間でもジッと聞いている。あのお坊さんの声が よかったなあと。
聖書の考え方か ら見るとこれは大変に異常なことであるわけです。聖書は神秘なものがあるとそれが何であるかとまず理論を張る。これが教理ですよね。創造主とは何か、どう いう属性を持っているか、霊とは何か、という論理が聖書には書かれている。聖書からその論理を抜き出して、神秘なものとは何だろうかと理論を張って理解し ようとする。理解した上でこれは真理だと、そうわかったらその理論を信じていく。
聖書信仰はそう いうものなのです。神秘なものには理論がある。理論を張って正しいと思ったら真理として信じなさい。そこに絶対者が示されていて、なるほどと思ったら拝し なさい。そこに理解が入っている。信仰の中身を理解が80%くらい占める。日本の信仰ではそれを理解することは不敬にあたると考えるのです。ただ恐れて、 拝しなさいというわけです。
鹿嶋:聖書信仰 では対象を理解するという姿勢を持っている。その認識対象を霊的なものまで広げないで、われわれが経験的に五感で確かめられるものだけに絞りましょうとし たのが科学の方法です。これがサイエンスなのです。科学というものは聖書をベースにして出ているのです。ですから、聖書信仰と科学とは方法は全く同じなの です。ただ対象をちょっとずらしただけ。聖書は霊的なものまで対象にするが、科学は経験的な五感認識のところまでを認識対象にするというわけです。だか ら、科学は聖書を基盤とした西洋からは出てきたが、東洋からは出にくいのです。
聖書信仰とはこ ういう構造だよ、日本の信仰とはこういうパターンだよ、と示してあげるといいのです。示すと興味ある者が学び始めるんですよ。宗教にはそういうものもある んだよということをきちんと教えなければ、その前に恐ろしがって学ばなくなってしまう。理屈が始まると、宗教とはこんなものではないんじやない?もっと神 聖なものじゃない?といってもう入ってこない。これでは正しい宗教観は育たないわけです。
鹿嶋:聖書信仰 には独特の存在論があります。それはこの世には、創った方・創造主と、創られたもの・被造物の二つがあるという考え方です。聖書の描く世界では、創造主 は、自分以外のすべてを創った唯一の存在です。永遠の昔には創造主だけが存在し、他には何もなかった。あるときそこに、彼が被造物を創り始めたという思想 です。
それを明確に自 覚するには、聖書の神、英語の「ゴット」を「神」ではなく「創造主」または「創主」(「つくりぬし」または「そうしゅ」と読む)と呼ぶことが重要です。わ が国の神という語には伝統的に、創造者というニュアンスはほとんどないからです。これまでわれわれ日本人は、人間の力を超えた大きな力を「自然の驚異」と いったイメージで漠然と意識してきました。だが、創造主の力はそれを圧倒します。創主は、全宇宙をも創った存在です。宇宙から見れば、地球上の「自然の驚 異」などはちっぽけなものです。創った方がそんなちっぽけな造られたものでイメージされることが間違いなのです。しかもその創主はまた、人格も意志も持っ ている意識体でもあるという思想を聖書は持っています。こういう人格が、全世界を統べ治めているという世界観なのです。
鹿嶋:そうで す。それが他の宗教と聖書のキリスト教とのはっきりとした違いです。その絶対者である創主は、被造物である天使や人間に、自らの意志を発信します。人間に 対しては聖書による啓示がそれに当たるのです。人はそれを読むことによって、創主の意図を知り対応していくことができる。加えて、人には祈りという手段が 与えられています。人間はそれによって、自らの願いを創主に伝え、それが示されたルールに沿っていればかなえられる、という思想なのです。
鹿嶋:この種の 世界観は、そこで生きている人間にメリットも与えます。たとえば、この世に絶対的な価値などなく、ものごとはすべて相対的だという気分から逃れることがで きるようにしてくれる。創主から与えられたルールは、善悪の基準でもあり、これは絶対的です。被造物たる人間は、コンピューターが人間に従うように、基本 的には従うしかない。こういう絶対的な基準を意識して暮らすことができるのです。もちろん人は、通常は、その時々の都合で行動します。だが、そうする一方 で、状況のいかんで左右されない絶対的な善悪の基準を意識しつつ暮らす。すると、社会現場で必要と思うときには、正義を決然として通す姿勢が育ってくるの です。
逆に、これを持 たないと、人間は絶対基準などないという意識の中で暮らすことになります。その結果、相対主義的な気分の中で生きるしかなくなる。こういう人生を送ってい ると、人は周囲を恐れずに正義を積極的に通すことができなくなります。絶対的な基準がない中で生きていくことは、実際、辛いことでもあります。
青少年が非行に 走るのも、こういう、すべてが相対的で不動の判断基準がない中で生きる苦しさ、辛さからくると言えるのではないでしょうか。彼らは、明確な価値基準を与え られると、更正することが多いのです。戦後、日本はそういう絶対者が意識にない状態で、経済だけを豊かにしてきました。ときどき、昔の雷親父の効用を懐か しみながら、これまでやってきました。
鹿嶋:日本は戦後、「もう宗教はごめんだ」ということで徹底した人本主義、人間至上主義で新体制を開始しました。そして50余年がたったいま、警察、防衛庁、銀行などで、モラル崩壊による不祥事が起き始めています。人本主義は破綻し始めたと思います。
日本が国際社会 で、一人前と認められるためには、国民一人ひとりが明確で強い正義の基準を意識に持つようにならざるをえません。そして万物を創造した存在がいるのだとい う世界観は、それを可能にするいい事例です。創造主と被造物が存在すると言う、複眼的な世界観を知ることによって、われわれ日本人は、初めて自分たちが当 たり前のように思っていた単眼的な存在観が、ひとつの見方にすぎないことを意識することができるのです。今こそ日本人は聖書を学ぶべきだと強く考えます。