AP/JP4000 .6.0 Advanced Readings in Modern Standard Japanese Japanese Section, York University Reading & Writing: Concept 「ホメオスタシス」 |
大学の学部時代に一般教養のコースとして生化学をとったことがある。高校時代に生物も化学もとったのだが、どちらかというと物理が一番好きであった。特に放射性物質の半減期などに興味を覚え、一時は原子物理か天体物理を専攻したいなどと大それたことを考えたこともあるほどである。大学での生化学のコースは一般教養とはいえ、今でいう学際分野の走りで、教授も自分の研究を授業に盛り込んでくれ、他の学生はかなりが居眠りをしていたが、私は、それまでまったく無関係に見えた生物と化学の接点の話に目から鱗が落ちる思いで、講義を聞いていた。特に興味をそそられたのは、ホメオスタシスという概念で、図書館に行ってかなり調べ、小論文もこれについて書いたので、今でもはっきり記憶しているが、生体はその生存期間のどの段階をとっても、その時点での最高の水準を保とうとする傾向がある、それをホメオスタシスと呼ぶ。生体の新陳代謝はその年齢とともに変化するが、生体は一生のどの時期をとってもその制約内で最大限効率的に機能するということである。生命現象は未だに謎であるが、細胞を基にする生体が、ただ単にその総和によるのではなく、何らかの相乗効果、ないしは「量子力学的な飛躍」により、生体を全体論的に維持していく力が、ホメオスタシスと言える。この概念は、後になって、脳に投影された文法のシステムについて考える時にずいぶん参考になった。
言語学の究極的な目的の一つはこの文法を解明することであると言えるが、文法が体系として脳細胞に組み込まれているとすると、ホメオスタシスは、細胞組織のみならず、文法体系のレベルでも機能していると考えられる。文法も広義の意味での有機体の一つである。有機体とは、個々の部分が集まって全体を構成し、その構成要素間に何らかの連関性と規則性があり、全体として個々の部分の集合以上の働きをする組織体と考えていいだろう。これは1+1が2でなく3にも4にもなる世界である。このような考えを言語習得に当てはめて考えてみると、次のようなことが言える。言語習得の分野での研究から、言語の発達は、直線的なものでなく、組織体としての「中間言語」群を通して獲得されていくことが分かっている。個々の中間言語は組織であるから、それが機能している間は、その制約内で最大限機能しようとする傾向、すなわちホメオスタシス、が働いていると考えられる。ところが、色々な新しい情報に接してその組織自体が機能しなくなる時点、臨界期、に達すると、そのような情報や刺激に対応できる組織に止揚する。当然この臨界期に達するまでは、色々な改訂、置換、その他の改竄の過程を繰り返して、言語習得自体が機能しなくなる時点、臨界期、に達すると、そのような情報や刺激に対応できる組織に止揚する。当然この臨界期に達するまでは、色々な改訂、置換、その他の改竄の過程が繰り返されるが、改良だけでは対応しきれなくなって初めて、次のレベルの組織に「投射」されるのである。これが新しい中間言語である。この過程を繰り返して、言語習得が進んでゆき、中間言語は脳の中に層として蓄えられていると考えられる。よく使われる例として、大人が幼児と話す時にいとも簡単に幼児語に戻れることや、意識的には全く日本語を知らない日系アメリカ人の被験者が、退行催眠による実験で、六歳ぐらいに戻ったとたん、べらべら日本語を話し出し、よく調べてみると、ちょうどその年齢の時に、戦時中の強制収容所で日本語を話すおばさん達に囲まれて育ったことが分かったことなど、興味深い報告がなされている。よく言語習得は、直線的に向上せず、台地的に進むと言われるのも、このように考えると、説明がつく。
第二言語習得の場合も、確かに中間言語の存在と、ホメオスタシス的力が働いていることを暗示するような現象が観察される。筆者の経験でも、例えば、英語の関係節について色々学び、練習もしたが、なかなか使えるようにならなかったのが、ある日突然、非制限用法の関係節が、すっと口を突いて出るようになり、それ以後、他の関係節も非常に自然に出てくるようになった。そればかりでなく、その時期を境に、英語での発話能力も急に伸びた気がしたのである。第二言語習得の分野では、こういうことに関連して、どの時期にどのような入力[input]、を与えれば、効果的に受け入れ[インテイク]が起きるか、それには順位があるのではないか、などの研究が盛んに行われてきた。その他右脳と左脳の役割の相違、学習者の性向が言語習得に与える影響などなど非常に興味のある観察が行われている。
さて、教える立場の人間としては、このような様々な研究成果を踏まえて、言語指導を行うわけであるが、短期間にどのような入力を与えれば、効果的な受け入れが促進され、1+1が5になり10になるような相乗効果を狙うことができるかというのが一番大きな課題であろう。これは習得の面だけでなく言語運用の面でも同じことが言える。いわゆるコミュニカティヴ・アプローチは、運用面での最大効果、すなわちホメオスタシスを促進するための指導法であると、私は思っている。当然それはできるだけ早く言語組織の次の臨界期に達する速度を速め、次のレベルの中間言語への早期到達を可能にするはずである。世の中には、第二言語を第一言語と同じように習得できる臨界年齢以降でもほぼ完全な多言語習得者になる人が約八パーセントぐらいいるという数字が出ていたと思う。彼らがどのように多言語を習得したかを解明することによって、我々が学ぶことは多い。ひょっとすると、彼らは、上に述べたようなことを無意識のうちにやっているのかもしれない。
2000年12月16日 |
© Norio Ota 2015 |
Last Modified: 24-Sep-2015 |