「五輪書」(一)
宮本武蔵
地之巻
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夫兵法といふ事、武家の法なり。将たるものは、とりわき此法をおこなひ、卒たるものも、此道を知るべき事也。今世の中に、兵法の道慥にわきまへたるといふ武士なし。先づ、道を顕はして有るは、仏法として人をたすくる道、又儒道として文の道を糺し、医者といひて諸病を治する道、或は歌道者とて和歌の道をおしへ、或は数寄者・弓法者・其の外諸芸・諸能までも、思ひ思ひに稽古し、心心にすくもの也。兵法の道にはすく人まれ也。先づ、武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也。縦ひ此道ぶきようなりとも、武士たるものは、おのれおのれが分際程は、兵の法をばつとむべき事なり。大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也。死する道においては、武士斗にかぎらず、出家にても、女にても、百性已下に到る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事におゐても人にすぐるゝ所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝ち、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ。是、兵法の徳をもつてなり。又世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきとおもふ心あるべし。其儀におゐては、何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也。
一 兵法の道といふ事
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凡そ人の世を渡る事、士農工商とて四つの道也。一つには農の道。農人は色々の農具をまうけ、四季転変の心得いとまなくして、春秋を送る事、是農の道也。二つにはあきないの道。酒を作るものは、それぞれの道具をもとめ、其善悪の利を得て、とせいをおくる。いづれもあきないの道、其身其身のかせぎ、其利をもつて世をわたる也。是商の道。三つには士の道。武士におゐては、道さまざまの兵具をこしらゑ、兵具しなじなの徳をわきまへたら
んこそ、武士の道なるべけれ。兵具をもたしなまず、其具々々の利をも覚えざる事、武家は少々たしなみのあさき物か。四つには工の道。大工の道におゐては、種々様々の道具をたくみこしらへ、其具々々を能くつかい覚え、すみがねをもつてそのさしづをたゞし、いとまもなくそのわざをして世を渡る。是士農工商、四つの道也。兵法を大工の道にたとへていひあらはす也。大工にたとゆる
事、家といふ事につけての儀也。公家・武家・四家、其家のやぶれ、家のつゞくといふ事、其流・其風・其家などといへば、家といふより、
大工の道にたとへたり。大工は大きにたくむと書くなれば、兵法の道、大きなるたくみによつて、大工にいひなぞらへて書顕はす也。兵の法をまなばんとおもはゞ
此書を思案して、師は針、弟子は糸となつて、たへず稽古有るべき事也。
一 兵法の道、大工にたとへたる事
大将は大工の統領として、天下のかねをわきまへ、其国のかねを糺し、其家のかねを知る事、統領の道
也。大工の統領は堂塔伽藍のすみがねを覚え、宮殿楼閣のさしづを知り、人々をつかひ、家々
を取立つる事、大工の統領も武家の統領も同
じ事也。家を立つるに木くばりをする事、直にして節もなく、見つきのよきをおもての柱と
し、少しふしありとも、直につよきをうらの柱とし、たとい少しよはくとも、ふしなき木のみざまよきをは、敷居・鴨居・戸障子と、それぞれにつかひ、ふしありと
も、ゆがみたりとも、つよき木をば、其家のつよみつよみを見わけて、よく吟味してつかふにおゐては、其家久敷くずれがたし。又材木のうちにして
も、ふしおほく、ゆがみてよわきをば、あししろともなし、後には薪ともなすべき也。統領におゐて大工を
つかふ事、其上中下を知り、或はとこまはり、或は戸障子、或は敷
居・鴨居・天井已下、それぞれにつかひて、あしきにはね
だをはらせ、猶悪しきにはくさびをけづらせ、ひとをみ
わけてつかへば、其はか行きて、手際よきもの也。果敢の行き、手ぎわよきといふ所、物毎をゆるさゞる事、たいゆう知る事、気
の上中下を知る事、いさみを付くるといふ事、むたいを知るといふ事、かやうの事ども、統領の心持に有る事也。兵法の利かくのごとし。
一 兵法の道
士卒たるものは大工にして、手づから其道
具をとぎ、色々のせめ道具をこしらへ、大工の箱に入れて持ち、統領云付くる所をうけ、柱がやうりやうをもて
うのにてけづり、とこ・たなをもかんなにてけづり、すかし物・ほり物をもして、よくかねを糺し、すみずみめんどう迄も手ぎわ能くしたつる所、大工の法也。大工のわ
ざ、手にかけて能くしおぼへ、すみがねをよくしれば、後は統領となる物也。大工のたしなみ、
よくきるゝ道具を持ち、透々にとぐ事肝要也。其道具をとつて、みづし・書棚・机卓・又はあんどん・まないた・鍋のふた迄も達者にする所、大工の専也。士卒たるもの、このごとく也。能々吟味有るべし。大工のたしなみ、ひずまざ
る事、とめをあはする事、かんなにて能くけづる事、すりみがかざる事、後にひすかざる事、肝要なり。此道をまなばんとおもはゞ、書顕はす所のことごとくに心を入れて、よ
く吟味有るべきもの也。