紫式部日記(二)
紫式部
いまはやうやうおとなびさせ給ふままに、世のあべきさま[no1] 、人の心のよきもあしきも、過ぎたるもおくれたるも、みな御覧じしりて、この宮わたりのことを、殿上人もなにも目なれて、ことにをかしきことなしと思ひいふべかめりと、みな知ろしめ[no2] いたり。さりとて、心にくくもありはてず[NO3]、とりはづせ[no4] ば、いとあはつけい[no5] こともいでくるものから、なさけなく[no6] ひき入り[no7] たる、かうしてもあらなむとおぼしのたまはすれど、そのならひ[no8] なほり難く、また今やう[no9] の君達[no10] といふもの、たふる[no11] るかたにて、あるかぎり[no12] みなまめ人[no13] なり。齋院などやうの所にて、月をも見、花をもめづる、ひたぶる[no14] の艶なる[no15] ことは、おのづからもとめ思ひてもいふらむ。朝夕たちまじり、ゆかしげなきわたりに、ただごと[no16] をも聞き寄せ、うちいひ、もしはをかしきことをもいひかけられて、いらへ恥なからずすべき人なむ、世に難くなりにたるとぞ、人々はいひ侍るめる。みづからは見侍らぬことなれば、え知らずかし。
かならず、人の立ちより[NO17]、はかなき[no18] いらへをせむからに[NO19]、にくい[NO20]ことひき出で[NO21]むぞあやし[NO22]き。いとようさてもありぬ[NO23]べきことなり。これを、人の心ありがたし[NO24]とはいふに侍るめり。などか[NO25]かならずしも、面にくく[NO26]ひき入り[NO27]たらむがかしこから[NO28]む。また、などて[NO29]ひたたけて[no30] さまよひ[NO31]さし出づ[NO32]べきぞ。よきほどに[NO33]、をりをり[NO34]の有様にしたがひて、用ゐむ[NO35]ことのいと難きなるべし。
まづは[NO36]、宮の大夫[no37] まゐり給ひて、啓せ[NO38]させ給ふべきことありけるをりに、いとあえか[no39] に兒めい給ふ上臈たちは、對面し給ふこと難し。また、あひても何事をか、はかばかしく[no40] のたまふべくも見えず。言葉の足るまじきにもあらず、心の及ぶまじきにも侍らねど、つつまし[no41] 、はづかしと思ふに、ひがごと[no42] もせらるるを、あいなし[no43] 、すべて聞かれじ[NO44]と、ほのかなるけはひをも見えじ[NO45]。ほかの人[NO46]はさ[NO47]ぞ侍らざなる[NO48]。かかるまじらひ[no49] なりぬれば、こよなき[no50] あて人[no51] もみな世にしたがふなるを、ただ姫君ながら[NO52]のもてなし[NO53]にぞ、みなものし[NO54]給ふ。下臈のいであふ[NO55]を、大納言[NO56]こころよからずと思ひ給ひたなれば、さるべき人々里にまかで[NO57]、局なるも、わりなき[no58] 暇[NO59]にさはる[no60] をりをりは、對面する人なくて、まかで[NO61]給ふときも侍るなり。そのほかの上達部[no62] 、宮の御かた[NO63]にまゐり馴れ、物をも啓せ[NO64]させ給ふは、おのおの、心よせの[no65] 人、おのづからとりどりに[no66] ほの知りつつ、その人ない折は、すさまじげ[no67] に思ひて、たち出づる[NO68]人々の、ことにふれつつ[NO69]、この宮わたり[NO70]のこと、「埋れ[no71] たり」などいふべかめるも、ことわりに侍る。
齋院わたりの人も、これをおとしめ[no72] 思ふなるべし。さりとて、わがかたの、見どころあり、ほかの人は目も見しらじ、ものをも聞きとどめじと、思ひあなづら[no73] むぞ、またわりなき。すべて人をもどく[no74] かたはやすく、わが心をも用ゐむことは難かべいわざを、さは思はで[NO75]、まづわれさかし[no76] に、人をなきになし[no77] 、世をそしるほどに、心のきは[no78] のみこそ見えあらはるめれ。
いと御覧ぜさせまほしう侍りし文書きかな。人の隱しおきたりけるをぬすみて、みそかに見せて、とりかへし侍りにしかば、ねたう[no79] こそ。
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬ[no80] かたこそあれ。うちとけて[NO81]文はしり書きたるに、そのかた[NO82]の才ある人、はかない[NO83]言葉の、にほひ[NO84]も見え侍るめり。歌は、いとおかしきこと、ものおぼえ[NO85]、うたのことわり[NO86]、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることども[NO87]に、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。それだに[NO88]、人の詠みたらむ歌、難じ[no89] ことわり[no90] ゐたらむは、いでや[NO91]さまで心は得じ[no92] [NO93]、口にいと歌の詠まるる[NO94]なめり[NO95]とぞ、みえたるすぢ[no96] に侍るかし。はづかしげ[no97] の歌よみとはおぼえ侍らず。
丹波の守[NO98]の北の方をば、宮殿などのわたりには、匡衡衛門とぞいひ侍る。ことにやんごとなき[no99] ほどならねど、まことにゆゑゆゑしく[no100] 、歌よみとて[NO101]、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞こえたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそはづかしき[no102] 口つき[NO103]に侍れ。ややもせば、腰[no104] はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠みいで、えもいはぬ[NO105]よしばみごと[no106] しても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしく[no107] もおぼえ侍るわざなり。
清少納言こそ、したり顔にいみじう[NO108]侍りける人。さばかり[no109] さかしだち[no110] 眞字[no111] 書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへ[no112] ぬこと多かり。かく、人にことならむ[NO113]と思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたて[no114] のみ侍れば、艶になりぬる人[NO115]は、いとすごうすずろ[no116] なるをりも、もののあはれにすすみ[NO117]、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじく[no118] あだ[no119] なるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬるひとのはて、いかでかはよく侍らむ。
かく、かたがたにつけて、一ふし[no120] の、思ひいでらる[no121] べきことなくて、過ぐし侍りぬる人の、ことに行くすゑのたのみもなきこそ、なぐさめ思ふかただに侍らねど、心すごう[no122] もてなす身ぞとだに思ひ侍らじ。その心なほ失せぬにや、もの思ひまさる秋の夜も、はし[no123] に出でゐてながめば、いとど[no124] 、月やいにしへほめてけむと、見えたる有様もよほす[no125] やうに侍るべし、世の人の忌むといひ侍る咎をも、かならずわたり[no126] 侍りなむと、はばかれて、すこし奥にひき入りてぞ、さすがにこころのうちにはつきせず思ひつづけられ侍る。
[no1]あるべきようす
[no2]しろしめす、御存知である
[NO3]どこまでも奥ゆかしくしていることも出来ないで
[no4]とりはづす、まかりまちがうと、ひょっとした拍子に
[no5]あはつけし、軽率だ、うすっぺらだ
[no6]なさけなし、無風流だ、興ざめだ
[no7]引き入る、引きこもる
[no8]習慣
[no9]今様、当世、現代
[no10]貴族の娘・息子
[no11]倒る、折れて出る、頭を下げる
[no12]残らず
[no13]忠実人、真面目な人
[no14]一途に、ひたすら
[no15]うっとりするように美しい
[no16]世の常の事件
[NO17]訪れる
[no18]はかなし、しっかりしない、つまらない
[NO19]ゆえに、から
[NO20]感心な
[NO21]引き出づ、引き出す、引用する
[NO22]不思議である
[NO23](動作の強調)
[NO24]めったにない、すぐれている
[NO25]どうして
[NO26]面憎し、みにくいほど
[NO27]引きこもる、遠慮がちにする
[NO28]すぐれている
[NO29]どうして
[no30]ひたたく、落ち着きがない、しまりがない
[NO31]心が定まらない
[NO32]人前に出る
[NO33]適当に
[NO34]そのつど
[NO35]心を使う、思慮分別する
[NO36]はじめに、初めの例として
[no37]中宮大夫、中宮職の長官
[NO38]申し上げる
[no39]弱弱しい、きゃしゃな
[no40]はきはきと
[no41]遠慮される
[no42]間違い
[no43]無益だ、しないほうがいい
[NO44]何事も聞かれまい
[NO45]ちょっとした気配・物腰も見えないようにしようとする
[NO46]上臈以外の人
[NO47]そのように
[no49]交際
[no50]格段の
[no51]高貴な人
[NO52]のままで、であるが故
[NO53]対応
[NO54]おっしゃる
[NO55]出て会う
[NO56]藤原斉信
[NO57]退出する
[no58]やむをえない
[NO59]ひま
[no60]差し支える
[NO61]罷づ、退出する
[no62]公卿
[NO63]お住まい
[NO64]申し上げる
[no65]ひいきしている
[no66]それぞれに
[no67]興味がなさそう、つまらなそう
[NO68]立ち去る
[NO69]何かにつけて
[NO70]宮にお仕えしている人々
[no71]引っ込み思案、消極的だ
[no72]軽蔑する
[no73]侮る
[no74]批判・非難する
[NO75]〜ずに、〜ないで
[no76]利口ぶって、自分こそ賢いという態度で
[no77]数から外す、ないがしろにする
[no78]程度、底の浅さ
[no79]憎らしい、腹が立つ
[no80]常軌を逸している、不都合だ
[NO81]くつろいで
[NO82]方面、分野
[NO83]ちょっとした
[NO84]きわだった美しさ
[NO85]色々なことについての知識
[NO86]歌論
[NO87]口に任せた即興の歌
[NO88]それほどの歌人であっても
[no89]非難する
[no90]判断する、批評する
[NO91]いや本当に
[no92]合点がいかない
[NO93]心得ず、合点がいかない、わけがわからない
[NO94]口先で自然に歌がすらすら詠める
[NO95]であるようだ
[no96]歌風
[no97]こちらが引け目を感じるほどの、立派な、大した
[NO98]大江匡衡
[no99]重きをなしている、一流だ
[no100]由緒ありげである、どことなく威厳がある
[NO101]歌人として
[no102]素敵だ、立派だ
[NO103]歌の詠みぶり
[no104]腰の句
[NO105]言うに堪えない
[no106]気取ったこと
[no107]みっともない
[NO108]高慢ちきな顔をして大変な
[no109]あんなに
[no110]利口ぶる
[no111]漢字
[no112]することができる、十分である
[NO113]人から抜きん出よう
[no114]情けない、感心しない
[NO115]優雅に振舞うことに慣れている人
[no116]関心がない
[NO117]はやる、勇む
[no118]そうあるべきではない
[no119]無駄だ、はかない
[no120]一件
[no121]思い当たる
[no122]凄し、寂しい
[no123]きざはし
[no124]ますます、いっそう
[no125]うながす、さそう
[no126]やって来る